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Shall we eat dinner?
先日、ある友人と数年ぶりに会った際、ヴィーガンの話題になった。一見、意識の高そうなトピックに見えるが、正確にはそうでもない。食事時に食の話題になっただけだ。
彼曰く「ヴィーガンの思想は理解できる。俺は猫や犬が好きだから、動物全般について、食べるのは可哀想だと考える人もいて当然だ」と。「なるほどなぁ」なんて相槌を打って別の話題に流れたけれど、頭の中の「未解決」の引き出しに乱雑に放り込まれたまま残っていた。
彼の言う可哀想仮説からは、「動物は可哀想だから食べないが、植物は可哀想ではないから食べる」という結論が導かれる。動物も植物も生命である点では同じであるにも関わらず、本当にそんな結論で良いのだろうか。最近の研究によると、植物には意識は無いものの外傷を受けると化学的に反応するらしい。痛みとして感じていないとは言うが今ひとつ釈然としない。そもそも他の生物の命を奪っている点については、どう折り合いをつけているのだろう。人間ごときが他の生物に対して憐憫の情を持つこと自体おこがましい気もしてくる。また、意識の有無を根拠にするなら、虫や培養肉は食べても良いのだろうか。
気になったのでヴィーガンと思われる人々の主張を調べてみたが、何を食べるかの線引きは、個人の食の好みの域を出ないのではと思われる理由ばかりだった。
可哀想仮説も単純に発展させて、他の生物の生命を一切奪わない無機物のみを摂取する生き方であれば理屈は通るんだけどねぇ。
その生き方は無機栄養とか独立栄養と呼ばれ、可能な生物が実在していた。
一般的な植物と特殊な細菌らしい。植物の方が人間よりもよっぽど筋が通っている。
(次の記事に続く)
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