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初恋 第22話

 自転車で十五分走るとクリーム色の家が見えた。僕は頭の中で百通りくらい「君が綺麗だ」というセリフの言い換えをリハーサルしていた。ドキドキしながら呼び鈴を鳴らす。女の子の家に初めて行くのだ。ラメラが現れる。黄色いブラウスのフリルが風で揺れた。途中で買ってきた彼女の好物のドーナツを渡す。ラメラは嬉しそうな顔をする。

「上がって」
 彼女の後に続いて階段を登る。彼女の長い足が僕の前を歩く。白い靴下にもフリル。部屋にはレースのカーテン。ピンク色のシーツのベッド。机の上にはたくさんのぬいぐるみ。鏡台。クローゼットが半開きで中から女の子の匂い。香水。「座って」並んでベッドに腰掛け。

「解らない所が有るの。教えて」
 彼女は算数の教科書を開く。でも見ていない。二人とも。彼女は腿を僕のそれにくっ付ける。彼女の唇が近づく……という展開にはならなかった。玄関のドアを開けてドーナツを受け取ったのはピーターだった。金髪で小太りの彼は、僕の家のすぐ近くに住んでいて同じ学校だったがクラスは別だった。僕とは仲が悪かった。ラメラとピーターは並んでソファーに座った。彼はドーナツの袋をぶよぶよした指で開けるなりかぶりついた。

「お前にしちゃ、気が効くな」
「君に買って来たんじゃない」僕は言い返した。頬が紅潮した。
「なんだ。二個しか無いじゃないか」
ピーターは、ラメラと二人で食べるつもりだったドーナツの残りの一個を、あ彼女に渡すとせせら笑った。
「用が済んだら帰りなよ。帰り道は分かるよな」

「待って。まだ終わっていないわ」
 ラメラが意地悪そうに言った。

「私、疲れたから肩を揉んでくれない」
 僕が彼女命令に従おうと彼女の背後に回ろうとすると、ピーターが僕の腕を掴んだ。
「その前に僕の足を揉んでくれよ」
「君とは賭けをしていない」
 憤然とする僕の耳に、ラメラは唇を近づけて囁いた。
「じゃあ、あたしからあなたにお願いするわ。彼の足を揉んであげて」

僕は顔を真っ赤にしながら、椅子に悠然と腰掛けるピーターの前に膝をついた。そして彼の足の裏に手を触れた。しわくちゃの黒い靴下がとても嫌な匂いを発した。ピーターは面白そうに指先を動かした。
「始める前に言うことがあるだろ」
「何を?」
「ご主人様、謹んで揉ませていただきますって」

 僕は返事をしなかった。すると、頭のてっぺんから茶色い液体が流れ落ちて目に入った。ピーターが飲みかけのコーラのカップを僕の頭上で傾けていた。
「おっと、失礼! 手が滑ったよ」
 ピーターは高笑いした。その瞬間、僕の脳みその神経細胞の接点がバラバラになった。ラメラが止める前に僕は彼に掴みかかった。重みでソファーが後方に傾いた。二人のすぐ後ろの出窓の、バラの花瓶が吹っ飛んで粉々になった。ピーターは体勢を立て直し、僕の顔を掴んで押し返した。

彼は力が強かった。後退した僕の背中が部屋を横切って廊下の壁に衝突したら、掛けてある、値が高そうな絵画が落下した。二人がそれを踏んだため、ガラスが蜘蛛の巣の模様を描いた。力任せに僕がピータの胸に頭突きを食らわすと、廊下の反対側の壁の絵も落下した。こちらは額がバラバラになった。

弾みで二人は倒れ込んだ。運が良かったのは僕がピーターの上に馬乗りになれたことだ。そして運が悪かったのは、天井にぶら下がっていた水牛の頭の剥製が落ちて来たことだ。それはすっぽりと僕の頭に被さった。急に視界が真っ暗になった。それが僕にとって恐怖の再生になった。あの誘拐事件で僕は視界を失った。そして今、それと同じことが起こった。

恐怖が指数関数的に増加し、僕は平常心を完全に失った。一方、ピーターは吹き出した。笑い声を聞いた、頭だけ牛になった僕はますます逆上した。水牛の剥製は僕を気に入ったのか、万力でそれを取ろうとしても取れなかった。
「やめて!」
 ラメラが叫んでいた。その声はとても小さく聞こえた。僕はだんだん息が苦しくなって気が遠くなり始め……。

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