Magic: The Gatheringのプレイデザインチームと禁止カードの話

動機

 《王冠泥棒、オーコ》が禁止となってから、自分にわりと近い場所でも「こんなカードが印刷されているようでは、プレイデザインチームは仕事できていない」的な言及を見かけるようになったので、それはちょっと視点としてシンプルすぎると常々思っていた。そういった人に投げつける用として書き起こしておこうと思い立ち、勢いで書きなぐったものである。もちろん真理を説いているものではなく、読んだ各位にて消化されたい。

本題

 そもそも、プレイデザインチームを「禁止カードを一切出さないようゲームバランスを調整するための」チームだと思い込んでいる人がかなり多い。完全に的外れ、というわけではないが、少しシンプルに過ぎる。

プレイ・デザイン・チーム - MTG Wiki 

"2017年4月に新たに発足され、その時点から開発中の各セットに関わっているが、新体制の影響が出る(このチームが開発の最初から関わる)セットはドミナリアからとなる。また、チームが完全に機能するようになったのは灯争大戦から、展望デザインにも意見を出すようになったのがエルドレインの王権からであるという。"

プレイデザインの教訓

"しかしながら《王冠泥棒、オーコ》に関しては我々の失敗です。"

確かに、上記のようにオーコが印刷されたことについての責任はプレイデザインチームにある、とプレイデザインチーム自身が供述している。しかし、これを見てプレイデザインチームが「禁止カードを一切出さないようバランス調整をするためのチームだ」と考えるのは短絡的すぎる。

プレイ・デザインの連絡

"プレイ・デザインの活動について私がこれまでに一番誤解されていたことの1つは、カードがバランスの取れているようにするためのプレイテストを行うチームだと思われていたことだ。それは我々の仕事の一部だが、数多くある段階の最初の1つに過ぎない"

プレイデザインチームは「MtGを通した体験全体をデザインしようとしている」と捉えるほうが妥当だろう。このデザインすべき体験の中に「スタンダードにおけるプレイテスト、及びカードセットとしてのバランス調整」という仕事が含まれているという認識のほうが、より実際に近いはずだ。

体験と報酬

 MtGというゲームを通した体験全体の中には「カードを見て機能評価し、それを取捨選択してデッキシナジーを構築するために、ゲームのことを精一杯考える」という思考負荷の過程が存在する。もちろんプレイデザインチームの仕事にはその体験をデザインすることも含まれているはずだ。極論、思考負荷とはゲーム全般におけるエンターテイメント要素そのものである。考えることが楽しいのだ。ここをデザインしないのはありえない。

カードを評価し、取捨選択し、考え、自分なりのデッキを構築する。この段階におけるプレイヤーとしての最大の喜び、つまり報酬とは「自身が選択したカードの評価が誰の目にも正しいと証明されること」である。カードの強さに対する目利きとも言ってもいいだろう。自分が「これは強いぞ」と思ったカードが実際に使われ、デッキタイプとなり、プロプレイヤーが使用し、環境を支配する。私の読みは正しかった!

上記の「環境を支配する」部分が一定の度合いをはみ出てしまうとそのカードは禁止裁定となる。極端な話「禁止裁定」とは目利きに対する、ある意味究極の報酬であるとも言える。ここで「禁止されるほど強いのは誰にとっても自明なので報酬にはなり得ない」という主張は反論にならない。デッキタイプができ、環境を支配してからはじめて「誰にとっても自明」になるからだ。

「プレイテストをちゃんとしていれば強すぎるのは明らか」「禁止にならないレベルの丁度いい強さのカードに調整すべき」なども有効とは思えない。《世界を揺るがす者、ニッサ》《時を解す者、テフェリー》がプレイテスト時に強いと認識されなかったわけはないし、"丁度いい強さ"だと思っている人も少ないはずだ。禁止を規定するのはカード単体ではなく環境である、という事実はMtGに慣れた諸兄には自明のことだろう。

パワーの境界

プレイデザインの教訓

"『戦乱のゼンディカー』に始まり『基本セット2019』までの間、我々――そのころは開発部と呼ばれていました――は看板セット、ひいてはスタンダード・フォーマットのパワー・レベルを徐々に下げるように意識的に努めていました。この方向性における我々の第一目標は、そのほとんどが通常は競技プレイに十分な影響を与えない高コストのカードや効果のデザイン空間を広げることでした。"

 元記事にも詳細に記述されているが、上記引用部分の「スタンダードのパワーを下げる方針」は過去のもので、この方針は撤回されている。現在はカードセットとしてのパワーは、少し強すぎると感じるようなカードがいくらか含まれているくらいであるべきだ、という指標で作られているはずだ。拮抗するほどのパワーがなければバランスが容易に崩れてしまう、というのがその主眼である。

"スタンダード内のパワー・レベルが低いということは、このフォーマットがパワー・レベルを間違ったカードにより敏感であるということであり、この事実によってこれらのスタンダード・フォーマットはひどく歪んでいました。《密輸人の回転翼機》や《ゼンディカーの同盟者、ギデオン》などのカードはそのフォーマット内のカードが強ければ起きないような方法で支配的でした。"

「目利きを含めた体験としてカードセットがデザインされている」
「強すぎると感じるようなカードがバランス上かならず含まれる」

という理由から、オーコのようなカードはこれからも意図的に印刷される。絶対に。

プレイデザインチームの「我々の責任」発言は多分に政治的な記事であり「誰の責任か」ということを明確にするためだけのものだ。これ以降強すぎるカードが印刷されないように努力する、という意味ではない。「ゲームバランスを良いものに調整する」と「禁止カードを一切出さない」は同義ではない。プレイデザインチームが努力することと、強すぎるカードが印刷されなくなることは目指している方向がそもそも違うのだから。プレイデザインチームは「楽しいと思える体験」をデザインしており、カードにおける楽しさとは、使ってみたいと思わせるだけの強さにかなりの割合で依存しているのだ。

今回は以上です。

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