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▽R06-06-30 未知、既知、理知

▽今日で2024年が半分終わるらしいですよ。ヤバすぎる。


▽ 「もう一年の○分の1が終わりました」みたいな言い方をよく見るが、あの系統の発言が毎回懲りずにバズるカラクリは、時間経過の体感的早さという事実よりも「分数」という概念の反直感性にあると思う。
 いや、むしろ行き過ぎた直感性というべきか。「一年の1/2が終わりました」というとき、まだ一年はあと6ヶ月も残っている。だからそこまで惜しむ必要はないはずなのに、「今までの長さをもう1回繰り返したら終わりか」というふうに、掛け算で勘定することができる形で提示された途端に残りわずかな気がしてしまう。一年という「何か分からないけれどなんとなく長そうな期間」だったものが、感覚で計算可能な具体的数値になってしまうのだ。未知に比べて、既知とは恐ろしいほどに矮小だ。


▽唐突だが、ぼくの一番好きな小説家は米澤穂信だ。(シリーズ物のラノベとかを除けば)純粋な冊数で比べても一番読んでいる作家だと思う。

 米澤作品の最大の魅力はもちろんミステリーとしての完成度だが、それと同じくらいに、作品世界から漂う雰囲気のようなものが好きだ。如何とも言語化しにくいのだけど、なんというか、どの人も深いところで達観しているような気がする。もちろん作品の中には「理性的でない人物」として描かれているキャラも存在するのだが、そういったキャラにしたって、個々の場面では「自分はこういう人物だから、こう発言するんだ」というようなロジックを踏んだ上で行動しているように感じる。幼稚な人間はその幼稚さにも、悪辣な人間はその悪辣さにも合理性があるような気がする。

 あるいはそれを、御都合主義的だとか、人間の偽らざる不合理な本質を描けていないとか、そんな風に批判することができるかもしれない。しかし、そうとも言い切れないのではないか。
 混じり気ない本物の不合理性のみを原動力に動くことのできる人間など、現代日本にどれだけ存在するだろうか。人間の自意識は、他者によって規定される社会的自己との絶え間なき自問自答から逃れることはできない。その過程でどんな狂気をも骨格化し、人格化し、自らの一部分として組み込んでしまう賢しさが、人間にはある。歯車の入った愚かさにこそ宿るリアルな人間性というのも、否定しようなく存在するのではないか。

 ……それに、元も子もない話ではあるが、小説はあくまで小説なんだから、人間の描きたい側面だけ描くことも決して悪ではないのだ。結局はそういう意味で、ぼくは米澤の描くキャラクターたちが好きだ。

 それで、したがってぼくは世に出ているほとんどの米澤作品を読破しているのだが、今、最後まで後回しにしていた作品をついに読み始めたところである。
 『インシテミル』である。


 それが最後まで残ることあんのか、というのが普通の捉え方だと思う。『インシテミル』は藤原竜也主演で実写映画化もされており、『黒牢城』で文芸賞を総なめにするまでは間違いなく米澤穂信の代表作の筆頭に挙がる作品だったからだ。少なくとも『犬はどこだ』とか『Iの悲劇』よりは目立つ存在である(これらもめちゃくちゃ面白かった)。

 しかしなんとも、『インシテミル』だけは食指が伸びなかったのだ。先述のとおり有名作だということもあり、大まかな内容……要するにデスゲームものだということは知っている。知っているからこそ、その情報がかなり邪魔をしてきているように感じられてならないのである。

 先ほどつらつらと書いたように、ぼくは米澤作品の登場人物から漂う理知性が好きだ。しかし「デスゲーム」といえば、その真逆、追い詰められた人間の狂気を描くためにあるようなジャンルなのである。
 「米澤のことだから、この作品もクールに描ききってくれているだろう」という期待と、「とはいえ、狂気や不合理さを描かなければデスゲームである意味がないんじゃないか」という分析の狭間に立たされ、読み進めるのにかなり恐怖している。
 藤原竜也主演ってのも拍車なんだよな。カイジと月だから、ぼくの中で。全部の文字に濁点をつけて叫ぶ主人公は、どうしても自分の米澤穂信観と相容れない。

 とにかくそんな感じなので、折角だからこの恐怖感を日記に残しておくことにした。読了後、全ての内容を知ったあとにこの文章を読み返したときどう思うのか、気になるね。


▽そのときのぼくはきっと、「なに怖がってんだコイツ……」と馬鹿らしく思うことだろう。未知に比べて、既知とは恐ろしいほどに矮小なのだ。

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