見出し画像

▽R06-09-25 希死快晴

▽スマホを失くした。しかも会社から支給されている、失くしちゃダメなほうのやつ。

 これ、本当に罠というか、世の中の仕組みのどうしようもない部分だと思う。普段づかいのスマホなら、本当に四六時中触ってるから失くすことなどほぼあり得ない。いっぽう社用の携帯は、特に休みの間は全く存在を意識しないから、ふとした場面でどこかに置き忘れてしまうリスクがあるし、そのわりに失くした際のダメさが私用スマホと段違いだ。危険性と罰の度合いが明らかに最適化されていない。なんとかしてくれ偉い人!

 やべ~~~と思いつつ、直近の行動をひとつひとつ振り返る。有休消化中なので万が一緊急の連絡があってもいいようにと、外出時にリュックの中に入れた記憶はある。そして帰ってくる頃には無くなっていた。道端でポロっと落ちてしまった可能性を考慮から除けば、目的地か、もしくは道中に乗った電車の中に置き忘れた可能性が高い。

 そういえば電車(新幹線)の中でメールの受信があり、弄った記憶があるな。全く覚えてないけど、その時にリュックにしまい忘れた可能性がある。JRのサイトに行くと「忘れ物問合せチャット」があったので、そこに機種などの情報を入力して返信を待つ。

 翌日。JRから折り返しのメールがあった。結果としては、見つかった。やはり電車の中に忘れていたのだ。よかった~~~~~~~~。

 紛失が発覚してからの20数時間、会社に報告したら始末書で済むだろうか、私費で弁償になるだろうか、セキュリティインシデントでもあるから色んな所に報告が行くよな、下手すると偉い人から直々に怒られて人事評価も下がったり……みたいな心配ばかりが無限に広がっていた。「ご申告の内容に近い品物がございました」の文言を目にした瞬間、街中ででっかいガッツポーズをしてしまった。

 こんな感じで、わりと致命的な落とし物・忘れ物をしばしばする。でも今のところ完全にロストしてしまったことはなく、然るべき所に問い合わせた結果ちゃんと手元に戻ってきている。もちろん幸運もあるんだろうけど、道徳の功利性をこれほど身に沁みて体感することはない。身の回りが迂闊な人間に対して寛容でいてくれてありがとう、社会……。


▽いわゆる希死念慮、「死にたいな」という情念を抱いたことは生まれてこの方一度もない。が、「別に今死んでもいいな」とか「死んでみるのも悪くないのかもな」とか思うことはたまにある。

 暇な休日、ひとりでどこかに出かけている時にこの感情に出逢うことが多い。曇り空の昼下がり、辺りに人通りは少ないが、車だけは幹線道路をビュンビュン通っている。そんなありふれた郊外の道をとぼとぼ歩いていると、まるで自分は世界のすべてから放っておかれているかのような気分に襲われる。風景における自身の不必要性。あらゆる"必要"のしがらみから解き放たれたような錯覚。それが妙に心地よく、次第にぼくの脳は「そういえば、生きる必要っていうのも特に無かったな」と思い至る。

 国家主義的なスローガンからは基本的に自由な現代日本に生まれ、かつ特定の宗教を持つきっかけには巡り合わずに育ってきた兼合いで、人間個人の「生きる意味」などおよそ存在しないと考えている。これは何らペシミスティックな含意を持つものではなく、むしろ「敷かれたレールの上を走るだけの人生なんてつまんないよね」というポジティブな常套句とほとんど同じメッセージと言ってよい。人生に意味を与えてくれる超越論的な何か(”レール”)なんてどこにも無い、それだけのことなのだ。そして、それならば必然、人生をいつ終わらせるのかについても個人の自由だということになる。この推察から導かれるのが、安楽死や尊厳死の議論であり、社会福祉としての自殺ほう助の議論であり、また、自殺しようとしている人間を引き留めるのは果たして正しい行いなのか、に関する議論である。死にたいと思った人が死にやすい社会は、個人主義の必然的な帰結なのだろうか。

 冒頭あんなことを言っておきながら、ぼくはとてつもなく死を恐れているタイプの人間である。今ここにある<私>の意識がいつかこの世から跡形もなく消えてしまうなんて、冷静な頭で考えたら到底受け入れられない。けれども、そんなぼくでさえも、ふとした瞬間には「死んでもいいな」なんて思ってしまうことがあるのがヒトという存在なのだ。少なくとも近代以降の人間にとって、希死念慮とはいつでもすぐ隣に佇んでいるごく身近な感情だと言ってよい。

 本当にこの世のどこにも逃げ場がなく、死を選ぶことでしか苦しみから逃れることのできないような窮極的な状況において、その自主的な死を認めるべきか否かはまだ分からない。ただ、そうではないけど息苦しい日々を暮らし、ままならない世界を恨みつつも何とか懸命に生きている人々に対して、「ほら、平穏な死はすぐそばにあるんですよ」とわざわざ案内してあげることはないんじゃないかと思う。その囁き声は、一部の前向きな人間にとっては想像もできないほど、多くの人間にとって魅力的である可能性があるからだ。

 仮に安楽死や自殺ほう助が法制化されたら、その社会的事実は否応なしに市民の選択を死へナッジする。自らの命そのものが天秤の片方に乗っかる程度の重さしかないことを知ったとき、人々は何のために生きるようになるのだろうか。もしかすると、転職や引っ越しと同じくらいの気軽さで「この世界に留まるかどうか」を選ぶ時代が来るのかもしれない。

 それが幸福な社会である、と考えることもできるだろう。世の中がそんなふうになるのはまずいんじゃないか、と感じるのはきっと保守的な志向のゆえなのだと思う。「わざわざ生きるほどの旨味がこの世にあるのか、死んでもよいのではないか」という判断をいちいち下さなければならないのは、少なくとも今のぼくにとっては、ちょっと面倒くさい。


▽Orangestarさんの曲を聴くと「死ぬときに流れるBGMがこれだったらいいな……」と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?