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▽R06-03-13 メトロ、泥酔、意識の実在性

▽東京メトロの駅の発車メロディ、駅ごとに違う曲なんだ。毎日乗ってるのに全然気づいてなかったな……。

 いや、ときどきオリジナルな曲が使われてるのには気づいてたんですよ(既存曲のアレンジとか)。けど、そういう駅はどちらかというとレアで、基本的には統一の曲が使われてるもんだと思い込んでいた。
 普段通勤で使ってる路線の曲を聴いてみると、たしかに全部聴いたことがある。どれもメロディラインは全然違う曲なのに、差異を認識してたのは2,3駅だけだった。ほぇ〜。背景化された情報への認知の雑さって面白いですねぇ。皆さんご存知でしたか?


▽昨晩付き合い酒で飲みすぎて、久しぶりに記憶が飛んでしまっていた。
 目覚めたら部屋にアクエリアスと鮭おにぎりがあって何事かと思ったが、PayPayの履歴を見ると昨夜のうちにローソンに対して支払いを行った実績があった。ちなみにアクエリは目が覚めた時点でほとんど飲みきられていて、泥酔下の自分も自分なりに酔いを覚ますべく努力していたらしい。えらい。けっきょく二日酔いは地獄だったけどね。


▽最近、いわゆる心の哲学に関する本を趣味程度にいくつか読んでいるので、酒で記憶が飛ぶ経験というのも内面的意識の実在性みたいな論点につい繋げて考えてしまう。

 我々はふだん起きている間、自分に意識というものがあると何の疑いもなく感じている。反対に、寝ている間には意識がない、とも思っている。だから夢遊病患者が寝ながらにして何か行動を起こしても、それは「無意識下で起こされた行動」だと自然に思う。催眠術にかけられた状態で起こした行動についても同様だ。では、泥酔下で起こした行動は?

 酔いを覚ますためにコンビニへ行ってスポドリを手に取り、レジに持っていき、PayPayの画面を提示して購入手続を行う、なんていう複雑な行動が、意識のない人間に可能だとは到底思われない。だから常識的に考えれば、あのときの自分には確かに意識があったのだ、と考えるべきなのだろう。しかし当のぼく自身としては、その間の意識の実在性について確信を持つことができない。それはひとえに、「その間の記憶がすっぽりと抜けている」という理由によってである。記憶が存在しない以上、それは夢遊病下や催眠術下での行動のほうに近いんじゃないか、とすら思えてしまう。


▽ここから2つの洞察ができる。
 1つの単純な帰結としては、意識感覚というのは記憶の連続性に強く影響されるのではないか、ということだ。10秒前でも3日前でも20年前でも同じことだが、「その当時の主観的な記憶」が現に存在するからこそ、その時の自分は意識下にあったのだと確信できる。録画ボタンを押さずにビデオカメラを回すように、全く記憶に残らないような認知があったとして、それに基づいて行動を起こす人間には「意識がある」といえるのだろうか?

 もうひとつは、我々が「意識」だと思っている<これ>は、実はかなりの範囲で気のせいなんじゃないか? という可能性だ。

 筋肉の運動は我々が「動かそう」と意思する前に始まっている、という結果を示唆したリベットの実験は有名だが、そこまでミクロな話をしなくても、我々が意識して行っていると思っている行動のいったいどれほどが、真に随意的(自由意志的)だといえるのだろうか。


 朝、玄関を開けてから職場の自席に座るまでの一連のルーチンは、明らかに意識下にある複雑で社会的な行動だが、その間の逐一の状況判断について思い返すと、びっくりするほど不随意的な気がする。
 細かく分解すれば、どの道を通るかとか、前から人が来たから右に避けようとか左に避けようだとか、どのドアから何号車に乗るかとか、近くの席が空いたけどご高齢の方がいるから自分は座らないでおこうだとか、ただ出勤する中でだって我々は幾多もの判断を行っているはずだ。けれど、そういった判断全てをはっきり理由も思い浮かべたうえで下しているかと言われたら、そんなことはまったくない。むしろ、ほとんどは予め確立された処理要領に則って、半自動的に下された判断だと言ってしまってよいのではないか。にも関わらず、我々がこの恐るべき自動性に注意を向けることは少ない。

 ぼやーっと絵空事を考えながら歩いていたら、いつの間にか見知らぬ街まで来てしまっていた、といった場合を想像する。そこまで歩いてきたのは間違いなく意識下のできごとだが、結果として私はそのことに驚いているのである。これは酒に酔って、いつの間にか手元にスポドリとおにぎりとPayPayの決済履歴があった今朝の状態と似ている。
 人は間違いなく随意的と呼べる脳の処理スペースを動員するまでもなく、かなり複雑なことを為しえるのではないだろうか。

 もちろん、この故に、意識なるものが全く存在しないとまで主張するのは早計だ。見知らぬ街まで歩いている間、意識がどこにもなかったのかと問われたら、多くの人は「ぼやーっと絵空事を考えていた方が私の意識である」と応答することだろう。
 だが、普段間違いなく持っていると感じている意識なるものが案外アテにならない事例をみていくと、酒が我々のソリッドな意識を0から100まで奪い去るのではなく、我々の意識の所在は、実は元々かなり曖昧で力も弱く、アルコールはその薄弱さをほんの少し助長しただけなんじゃないか、と考える方がしっくりきてしまうのだ。


▽……というようなことを、二日酔いでガンガンする頭で考えていた(半分以上は最近読んだ新書の受け売りだけど)。

 気分が悪い時に具体的なことを考えるとさらに現実酔いしてしまうので、なるべく抽象的で実生活に関係のないことを考えるようにするといい。いや、寝とけって話なんですけどね。二日酔いで吐きそうなときも横になっていられないことこそ、労働の罪悪の本質である気がする。

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