見出し画像

マッチョ思想への違和感ー「動物化」する社会で

ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

コリント人への第二の手紙 12:9 JA1955

何かと、「強さ」がもてはやされる現代。
SNSでは、「威勢のいいこと」を言う人がもてはやされ、過激な言説が支持され、世の中は強いリーダーを求めて権威主義がますますはびこる、そんな昨今。

"強さこそ正義"、そうしたマッチョ思想的価値観が跋扈する、そんな社会の在り方に危機感を覚えつつ、今回のタイトルを。


"HSP勢オタク"である筆者が贈る、マイノリティーが生きにくい日本社会への提言。

"動物化"する社会

思想界の巨人、東浩紀氏の名著『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』が執筆されたのは2001年。

「それはとりあえずは、社会が複雑化し、その全体を見渡すことがだれにもできなくなってしまい、結果として多くのひとが短期的な視野と局所的な利害だけに基づいて行動するようになる、そのような社会の変化を意味する言葉です。だからこそ、動物化の時代にいかにして公共性が成立するのか、問われなければならない」

wired.jp内の記事より引用

東浩紀氏は、刊行から18年後のインタビューにて、「動物化」について上記のように説明しています。
刊行から20年経過した2024年、東氏が指摘した「短期的視野と局所的利害に基づいて行動する」傾向はますます強くなっています。

デカルトは「動物には精神がないから、単なる機械である」と定義した。
この定義については様々な意見があることとは思うものの、人間と動物の大きな違いについて、興味深い解説が。

動物化とはなにか。フランスの思想家アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』にて人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」という言葉を用いて表現した。コジェーヴによれば人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。「『動物になる』とは、そのような間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏─満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」と、東は『動物化するポストモダン』で解説している。

wired.jp内の記事より引用

多くの動物は自らのパートナーに「強さ」を求める。
その方が生き残る確率が高いからという観点から考えると自然なことともいえます。

しかし、人間は「他者への慈しみ」を持ち合わせている。
むろん、動物にもそのような感情がないわけではないとは思うものの、動物が全く異なる種の生き物に対して"利害関係なしに"食べ物を分け与えるというような行動はほとんど見受けられない。

例えば災害や戦争などがあって、大きな経済的損失を被った地域に、我々は寄付を行ったり、物資を送ったりする。
それは人間が人間たる所以だと、私は思うのです。
「苦しみ」や「悲しみ」に寄り添うことができる、これこそが人間が持つ素晴らしい特殊性だと、思わざるを得ないわけで。

"弱さ"を武器にしたキリスト

冒頭で紹介した新約聖書の一節でも記したように、イエスという人物の生きざまは、「弱さ」という言葉に端的に表されているといっても過言ではないでしょう。

聖書が世界中のあらゆる言語で訳され、世界に広がっている理由の一つには、やはり「弱きもの」に対する慰めの言葉に満ちているからに他ならない、と私は思うのです。

イエスが自らの「弟子」に選んだ人たちは、社会的な有力者ではなく、一介の漁師といったごく普通の地位にある人材でした。
スマホのソシャゲで例えるなら、「つよつよのURカード」ではなく、世間では弱いとされている「ごくありふれた汎用のノーマルカード」(という例えは失礼かもしれませんが)で戦っていたようなものです。

イエス自身も大工の息子であり、(多少の筋肉はあったにせよ)「ムキムキのスーパーマン」ではなかったでしょう。
しかも、この世では小さな馬小屋で生まれ、最後には十字架につけられてあっけなくゲームオーバーになってしまったかと思われました。

しかし、イエスの語った言葉は2000年経った今も現代に広がっていることを思えば、むしろその「弱さ」こそが人々を引き付けているのではないかと思うのです。

「強さ」ばかりが求められる現代にあって、生きづらさを感じている人は多いと思いますが、弱さを抱えている人に"刺さる"言葉が聖書には多く、そこから得られるものも多いと感じます。

"へこたれない"ハルウララ

かつて高知競馬にいたスターホース、「負け組の星」という異名もついた競走牝馬【ハルウララ】。

彼女(敢えてこう呼ばせてください)は、結局ただの一度もレースでは勝つことはできませんでしたが、しかし、彼女を見るために1万人超の観衆が高知競馬場に詰めかけたことは大きな話題となりました。

「強さ」が人気の尺度ともいえる競馬界にあって、彼女のような競走馬が注目を集めたのは、「めげない」ひたむきさ故ともいえるでしょう。

一度も故障せずにレースを走り切った【ハルウララ】が人々に受容されたことは、このマッチョ思想がはびこる現代にあって、ある種の救いのようなものと言えるかもしれません。

私が好きな、競走馬をモチーフにしたゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』においては、【ハルウララ】以外にも、あまり目立った成績を残せなかった競走馬がモデルになったキャラクターが多くいます。

重賞勝ちを一度も達成できなかった【ロイスアンドロイス】や、【サウンズオブアース】といったキャラクターたちにも光を当ててくれたという意味では、非常に目の付け所が面白いな、と思わせてくれたゲームではありますが。

ゲームに登場しない競走馬たちにも、一頭ごとに「物語」があり、中にはデビューすら叶わなかった存在もいます。
「強さ」だけでなく、「儚い」そんな存在にも思いを馳せることができる社会であってほしいと願います。

熱狂すると周りが見えなくなる国民性

近ごろは防衛増税や周辺国の軍拡競争、現代日本でも諸外国に武器を輸出できるようにする法案などが検討され始め、知らないうちに何やらきな臭い動きが強まっている雰囲気を感じ取っている筆者でありますが。

思えば太平洋戦争開戦前も、多くの国民が欧米列強に勝てると息巻いていましたが、結果は惨憺たるものでした。
いざ敗戦してみると、それまでさんざんこき下ろしていたアメリカに手のひら返しで、すっかり対米従属国家になり現在に至るまでアメリカのご機嫌を伺ってばかりの政治情勢。

バブル経済においても、日本人は「もっと地価が上がる」と狂乱状態で、バブルが崩壊し終焉したことで熱狂していた多くの日本人は多額の損失をこうむりました。

残念ながら、多くの日本人は「熱狂すると視野が狭くなる」という傾向を見出すことができる気がします。
場の雰囲気に流され、「みんながやっているから自分もやる」という主体性の無さが目につきます。

現代にはびこる「マッチョ思想」の根幹にあるのは、「権威に対する盲従」とも言え、それは例えば同調圧力であったり、立場の弱い人たちが声を上げると叩き出す風潮を招いているともいえる気がします。

世界を見渡してみても、「自国第一主義」をはじめ、「自分たちさえ良ければいい」という思想がまん延し、他者に向き合う余裕の無さを如実に感じる場面が多くなりました。

"動物化"の項目でも示した通り、本来他者との交流やかかわりの中で欲望を満たしていた人間が、そうした関係性を拒絶し、閉じた世界の中で満足してしまっている現状に、やはり大きな危機感というか、違和感を感じてしまいます。

"こどもぎらい"の現代日本

かつてない勢いで少子化が進む日本。
その原因なのかどうかわかりませんが、「こども」に対する不寛容さが諸外国に比べても際立っているように感じます。

「公園でキャッチボールをしてはいけません」という立札は海外では見かけませんし、例えばベビーカーを押して電車に乗っていると、海外では多くの人が手を差し伸べてくれますが、日本では見て見ぬふり。
幼稚園や保育園を住宅街に作っても、「騒音が迷惑」と言われる始末。

育児放棄やネグレクトも増加する一方で、「こども」や「赤ちゃん」といった"弱い存在"を許容できない社会になってしまっています。

大人はだれも、はじめは子どもだった

星の王子さま - サン・テグジュペリ

しかし、考えてもみてください。
あなたも、「はじめは子どもだった」のです。

「子ども」もとい、「小さい人」は、実は大人たちが思っているよりも実に多くのことをわかっています。

「子どもだからといって、“経験も浅い、物事をよくわかっていない存在”とは、これっぽっちも思っていないからですよ/小さい人たちというのは、実にいろいろなことが分かっているのです。大人が思うよりも、いやおそらく大人よりも、ずっとずっと賢いんですから」。

高見のっぽ著「ノッポさんの『小さい人』となかよくできるかな?」より引用

冒頭でも紹介した聖書の中でも、イエスという人は、「小さい人」をこよなく愛していました。
それは、彼らが大人に比べて純粋であり、愛されるべき存在だということをわかっていたからにほかなりません。

「小さい人」が愛されない社会が、これから良くなるわけがない。
それが出来ない日本では、残念ながら今後の未来も明るくないでしょう。

モノは溢れているのに、諸外国に比べると幸福度が低い日本ですが、沖縄県では他県と比べると相対的に高い。

その理由のひとつに、「子どもは宝」という価値観があります。
出生率は49年連続でトップを維持し、「小さい人」や「お年寄り」といった弱い立場の人を大事にする風土がある。

「弱さ」に対する寛容さが、社会を良い雰囲気にしていくことは間違いないでしょう。
(東京の出生率は1.04で断トツ最下位)

肉食は高エネルギー・高負荷

私が想定する"マッチョ思想"は「個人が究極的に能力を鍛えて、極力他者の力を借りずに生きること」であり、ニーチェが「超人」で説いたように、「強い存在」こそが望ましく、人は弱さを克服して生きる、という言説もある意味では私は"マッチョ思想"に近いものだと思っています。

近年世の中にあふれる自己啓発本や筋トレ本の多さに辟易している方も多いことでしょう。

巷では「プロテイン食品」の売上が上がっており、皆が「望ましい自己」を手に入れるためにこぞってそうした食品を手に取る姿が目に浮かぶようです。

しかし、社会全体がそのような強さを求める傾向になればなるほど、世界は多くのエネルギーや食糧を必要とするようになります。

ご存じの通り、肉食は環境負荷を高めます。
肉牛を育てるために、広大な森林を切り開き、田畑を焼き払い、飼育のためには大量の水と穀物を必要とします。
牛のげっぷが大量のメタンガスを排出しており、それらが温室効果ガスの一因にもなっています。
資源の争奪戦は、やがて国土を獲得する戦争へと繋がります。

特に日本は、エネルギーや食糧を海外に依存しているため、今後ますますそうした政情不安に伴って、生活コストは上がっていくでしょう。

人々の思想が攻撃的になるほど、社会的なコストというものは上昇していきます。
高エネルギー、高カロリーの生活を維持するため、途上国から多くの資源を収奪する社会的傾向は強まるでしょう。

「ありのまま」を受け入れる生き方

様々な思想や哲学があふれる今の世の中において、特に私が気になることは、「あなたはこう生きるべき」「そうしなければならない」というような押し付けの価値観が目につくことです。

「強さ」を求めること自体を否定しませんが、「皆が強くなるべき」という方向になると、ともすればナチスのような優生思想が社会を覆うようになります。

たとえば「赤ちゃん」は、生まれてからは親の庇護なしには生きていけません。
そうした「弱い」存在に対して、「自分で立って歩け」と言えるでしょうか?

効率ばかりが優先される世の中、もしかするとフランケンサーモンのように、「数倍の速さで成長する赤ちゃん」が将来出てくる可能性だってあり得ます。
「赤ちゃんは生産性にまったく寄与しない」という理由で遺伝子組み換えフランケン人間が出てくる未来はさすがにぞっとします。

「弱さ」というものを受け止め、それを受容して生きる。
私はそういう温かい眼差しをもっていたいし、「弱きもの」だからこそわかる人間の悲哀とか、苦しみとか、辛さとか、そういう悩みを様々な人と分かち合いながら、「人間らしく」歩んでいきたい。そう思っています。

「弱いから強くなろう」ではなく、「弱くてもありのままでいい」。
"動物化"する社会のなかで、私が持っている希望は、「そのままを認める」ということだから。

クリークママがお礼を言いたいようです


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?