❤「無いもの」ではなく、既にあるものに目を止める❤
「HSP気質」であり、「内向型人間」であるオタクによる「オタ語り」。
今回のテーマは「自己肯定感」。
私もかつては、その気質ゆえに、人の目が気になり、自分をあまり肯定できずにいたのですが。
「ないものねだり」をやめ、「自分が既に持っているもの」にフォーカスすることで、人生が少し楽に生きられるようになったお話です。
※今回の記事も7,000文字オーバーの文量ですので、あらかじめご承知おきください。
日本は実は、「資源大国」
日本は良く「資源がない国」と言われます。
でも、本当にそうなんでしょうか??
確かに、「工業」とか「商業」という観点からみれば、多くのエネルギーや資材を外国由来のものに依存しています。
日本においては、「儲かる産業」のことばかりが優先されてしまうため、どうしても「資源」というと、そういったカテゴリで使用されるものばかりが注目されがちです。
日本は戦後「モノ」ばかりが優先されて、「教育」や「福祉」あるいは、「芸術」という人文的リソースにあまり投資してこなかったツケが、近年においては顕著になってきている気がします。
また、「農業」や「漁業」「林業」といった第一次産業を軽視してきた結果、日本は農家の担い手が少なくなったり、外国の輸入食材に依存し、食料自給率は先進国の中でも低い水準に留まっています。
以前からそういった問題は指摘されていたにも関わらず、近年の食料価格高騰になるまでは、あまり国民もそのような問題意識が高くなかったように思います。
さて、見出しにも書いたように、実は、日本にはまだ活用されていない資源がたくさんあります。
まずひとつは、「たくさんの森がある」。
そして、「豊かな水がある」。
さらに、「良い土があり」、「ユニークなものに満ちている」。
「第一次産業」の軽視
日本は、戦後急速に工業化し、「高度経済成長」によって、確かに経済的には豊かになりましたが、まだ使えるものを捨ててしまったり、「飽食の時代」といわれたように、食料廃棄量が世界でもかなり多い状態です。
「豊かな森がある」日本ですが、近年は外国の安い木材に押され、国産の木材は、残念ながらあまり使われることがないままです。
林業に携わる人たちも、かつてより激減してしまいましたが、皮肉にも「花粉症」で悩む人は年々増加しています。
現代の日本においても、「木造建築」や「国産食材」はもてはやされますが、残念ながら「農業に携わる人」や「林業に携わる人」というのは、あまり尊ばれない。
サービス業や製造業といった「利益を上げる職種」は尊敬されるのに、人間の根本にかかわる「衣」「食」「住」に関わる第一次産業の方々は、「儲からない」という理由で敬遠される。
これはとても残念なことだと思います。
日本には「第一次産業」にかかわる分野では、非常にたくさんの優れた資源がたくさんあり、これを活かさないのは「宝の持ち腐れ」です。
コロナ禍で、人の往来が無くなった際も、幸いにして物流が途切れることはありませんでした。
しかし、もし今後「外国の政情不安」や、様々なイレギュラーな事態が起きた際、海外から輸入が途絶えてしまったら、日本はどうなるでしょうか?
「日本に無いもの」ばかりを輸入する前に、「日本がたくさん持っているもの」に目を向けるべきだと、私は思うのです。
毎日お風呂に入ることのできる国は、実はそれほど多くありません。
日本では潤沢に「水」があるので、それに慣れきってしまっていますが、この豊富な「水」だって、素晴らしい資源です。
また、「良質な土」のおかげで、日本では陶器などの焼き物作りが盛んですし、農業だって、良好な耕作地自体はたくさんあるのですから、取り組む人が増えれば自給率100%も夢ではありません。
そのためには、やはり「第一次産業」の人たちによって、私たちの暮らしが支えられているということを、改めて思い出し、そういった産業に従事する方がもっと増えるような施策を考えていきたいと思います。
「インバウンド」から学ぶ稀少性
日本には、このところの円安の影響もありますが、たくさんの海外の方たちが訪れています。
それは、「日本にはユニークなものがたくさんある」からに他なりません。
「他の国では経験できないこと」を求めて、たくさんの人が日本に魅力を感じているのは、有難いことだと思います。
奥会津にあるローカル線『只見線』は、当初は廃線もやむなし、と地元の方からも半ば見放された状態でした。
しかし、只見線復活のきっかけとなったのは、台湾の方々が、「その価値」に気づいたからでした。
例えば、「コンビニと富士山」の写真を撮影するために来る海外の観光客も然り。
「コンビニ」という、日本人にとっては何の変哲もない店舗でも、海外では珍しい存在に映ります。
実は、私たちが気づいていない素敵なものが、日本にはたくさんある、そのことに気づいてほしいと思います。
「田舎には何もない」といって、都市に出ていく若い人たちが多いようですが、それは地元に眠っている資源に気づいていないだけだと思うのです。
自分自身、地方都市や郊外には長く住んでいますが、「何もない」と思った経験は一度もありませんでした。
「自然エネルギー大国」のポテンシャル
北海道よりやや大きい面積ほどの北欧の島国、『アイスランド』。
この国では、電力需要のほぼ100%が、自然エネルギーによって賄われています。
日本とは人口規模が違うので、単純に比較はできませんが、しかし、同じ火山大国である日本とは雲泥の差といえると思います。
日本は技術力があるのですから、リスクの大きい原発に頼らなくても、地熱発電や潮汐力発電など、「日本が既に持っている」様々な自然エネルギーをもっとフル活用すれば、自前で様々な資源を用意できると思うのです。
日本は世界からも「環境問題に後ろ向き」と言われていますが、私はその原因について、日本の人たちが「自然が持つ素晴らしいポテンシャル」を過小評価していると思っています。
あれだけ過去に津波が来ていた三陸地方でも、東日本大震災でたくさんの犠牲者が出た。
それは、「自然を見くびっていた」という一言に尽きると思うのです。
「第一次産業の軽視」にしてもそうですが、現代人は、自然というものの恩恵をどれだけ受けているかについて、ありがたみをもっと感じてほしいと思うのです。
「日本には資源がない」という不満を見るにつけ、私は自然が怒っているように感じるのです。
「日本には豊かな森や水や土があり、たくさんのものを人間に還元している」という自然の叫びを、もっと受け止めてほしいと願ってやみません。
「私は既にある」
「無いもの」ばかりに目を向けて、あまり自信が持てなかったかつての私ですが、「既に持っているもの」に目を向けることで、私が確信したこと。
それは、「私はここに居ていい」という肯定感でした。
"私がこの世界に生まれた"以上、それが私がここに存在する理由として十分なのだと思えるようになったのです。
今の世の中、「生産性」で人の価値を決めることが多くなりました。
「どれだけ稼いでいるか」とか、「どれだけたくさんの物を生み出しているか」によって、勝手に世の中から「必要性」を決めつけられる昨今。
けれど、人は「表面的なもの」しか見ていない。
どこの学校を卒業したとか、どの会社に勤めているとか、どんな役職についているとか。
そんなものによってしか、人の価値を決められない人たちのことなんか気にせず、私は堂々と生きようと決めたのです。
日本では「宗教」というと怪しいものと決めつける傾向がありますが、世界を見渡してみると、何らかの信仰を持っている人の方が多数派です。
《サン=テグジュペリ》は、『星の王子さま』でこう記します。
「表面的なもの」ばかりを重視し、内面的なもの、精神主義的なものを軽視する現代にあって、彼が記した「かんじんなことは 目に見えない」という言葉は自分の人生において、今でも指針となっています。
『星の王子さま』は聖書の言葉にも影響を受けていたことが知られています。
「見えないもの」について、新約聖書にも言及があります。
短期的利益を追い求めがちな現代、しかし、それは「一時的」です。
物事を長い目で見ることができる人ほど、「本質」にこだわり、そして自分たちの事だけでなく、後に続く世代のことまで考えることができるのではないでしょうか。
「様々な存在を認める」ことの重要性
私は「内向型人間」で「HSP気質」という特徴を持っており、世の中では少数派と言われています。
社会ではどうしても、「多数派」の価値観が正しいかのように喧伝されがちですが、私はそうは思いません。
むしろ、私は「内向型人間」で「HSP気質」という特徴を持っていることにより、「物事の本質」を見極めることに優れているということに気づいてからは、自分の考え方や迷った時の判断がとても良い方向に向かうようになったと感じるようになりました。
日本社会ではどうしても「人と同じことをする」ということが重んじられる傾向がありますが、結果としてそれが行き過ぎたことにより、現在の「失われた30年」と呼ばれる閉塞感に満ちた社会に繋がっていると思っています。
日本においては、企業や政治などの意思決定層における人材が、「年配の男性」に偏っており、世界と比べても同質性が突出しています。
しかし、多くの研究において、「多様性」が、集団の生存率を高めることが明らかになっています。
実際、例えば雪山で遭難した時に、「そこに残って体力を温存する」人と、「外に出かけて行って助けを求める人」という、別のタイプの人間が混在している方が、より生存する確率が高まることは言うまでもないと思います。
世の中には、「様々なタイプ」の人がいることが強みであって、例えば「認知症」の方や、「発達障害」を持った人がいることは、社会の中で実はすごく大事なことでもあります。
社会的弱者というのは、生産性が重んじられる現代では、疎まれ、排除される傾向が強まっています。
お子さんや高齢者の方々も、現代ではますます嫌われる存在になっています。
けれども、「子供は宝」「お年寄りを大事にする」という価値観が根付いている沖縄県では、出生率は47都道府県で1番高く、また幸福度調査においても上位をキープしています。
現代で失われている「寛容さ」というものが、「自己肯定感」にも深くかかわっていると、私は思います。
※実際、日本の自殺者の数、うつ病を患う人の割合は先進国でもトップクラスです。
世の中が様々な立場の人たちに対して寛容になるほど、人々の「自己肯定感」は上がっていく。
逆に「自分は誰からも必要とされていない」と思う方が多いからこそ、日本ではこれほど多くの方が自ら命を絶つのではないでしょうか。
「減点方式」の日本の組織の評価基準
「ないものねだり」というマインドになりがちな日本。
その大きな要因に挙げられるのが「減点方式」による他者への評価だと思います。
スポーツに関してもその違いが如実に表れており、例えば海外では「地域クラブ」が主流のサッカーに対して、かつては日本は「部活動」が中心になっていた。
今でこそ、日本の高校サッカーにはユース出身者が増えてはいますが、かつては「部活動」出身者が多かった。
2024シーズンはサガン鳥栖の通訳を務める、元バルサのジュニアスクールコーチの《村松 尚登》氏は自身の著書で日本の育成方式の問題点を指摘しています。
日本の部活は「基礎練習」ばかりやらせるので、確かに「ドリブル」「シュート」は上手い。でも、実際の「試合」ではそれを活かせない。
対してスペインの育成年代では、「実戦経験」をたくさん積ませる。
プレッシャーの無い状態で延々とドリブルをさせられる日本との違いを著者は指摘しています。
野球で新人が球拾いばかりやらされる状況と似ていますが、それでは「目的意識」が身につかない。
会社組織で、日本人はイエスマンばかりと言われます。
だから、「仕事ができる人」より、「組織の意向に忠実な人」が昇進する。
学校教育や部活動でも、「上からの指示に従う人」が評価される。
サッカーでも、ゴール前でキーパーと1vs1になった状況で、海外の選手は迷わずシュートを打つのに、日本人はパスを選択してしまう。
「減点方式」で育った日本人は、他者からの評価や協調性ばかりを意識してしまうので、主体的な選択ができなくなってしまっていることの象徴だと思います。
国際舞台においても、海外の選手は個性の強さがあり、例えば陸上の名選手《フローレンス・ジョイナー》氏のように、派手なメイクやネイルで試合に臨む選手がいる一方、日本ではスポーツ選手がおしゃれをすると、批判されがちです。
「人はこうあるべき」という同調圧力が強いので、他者の行動に対していちいち難癖をつけるのが日本の悪い傾向です。
誰かに迷惑をかけているならまだしも、スポーツ選手がメイクをしたところで、何か問題があるのでしょうか?
「自分がどうあるべきか」は、「自分が決められる」社会になることが、結果的に、より自己肯定感を持ちやすい世の中になる、そのことに気づいてほしいと思います。
さいごに:「あなたは愛されている」
「自分に無いもの」を他者が持っていると、それを羨んだり、妬んだりということは誰しも経験があるでしょう。
特に日本においては、そういった傾向が顕著ですが、海外との比較においてよく用いられる文化的な違いが、
日本人の行動規範においては、他者との相対的な関係を重視するのに対し、欧米ではキリスト教がベースにあり、より「自律的」な行動になりやすい、という指摘があります。
先ほど少し聖書の言葉を紹介しましたが、日本で様々な支援活動を行っている「不良牧師」こと、《アーサー・ホーランド》という方の著書『あなたは愛されている』で、著者はこう語ります。
《アーサー・ホーランド》さんは、牧師ではありますが、世の中から見捨てられたような人たち、すなわち元ヤクザや受刑者・薬物依存者などへの支援を30年以上にもわたって行ってきた方です。
instagramなどのSNSでは、「承認欲求」とも呼べるような、「私を見て!」と言わんばかりの投稿がたくさんある一方で、どこか自分を着飾ったような、身の丈に合わない、背伸びをした写真が多く見受けられます。
けれども、《アーサー・ホーランド》さんは語ります。
「あなたは既に愛され、認められている」
「無いものではなく、既にあるものに目を向ける」という当記事のタイトルですが、そのヒントとなったのが、著書にもあるように、キリスト教の思想における「無償の愛」です。
同じように、信仰をベースに活動されていたシスターの《渡辺和子》さんも、『あなたはそのままで愛されている』という著書を発表されています。
海外の人たちのマインドとして、やはり信仰がベースにある方が日本よりも多く、「努力して愛されるようになる必要はない、元々既に愛されているのだから」という意識で生きている方が多いように見受けられます。
現代は何かと「人の役に立つことをしていないとダメだ」というレッテルを貼りがちですが、それは世の中が勝手に決めたことです。
「世の価値観」に縛られず、「私は既に愛されている」という意識をもって生きることが、自分をより大切にできるし、他人も大切にできる。
インターネット上で、他者に対して誹謗中傷を行っている人たちの多くは、「自分が上手くいっていない」、すなわち「劣等感」を持っていることが指摘されています。
「自分を肯定する」ということが、「他人も肯定することができる」。
「自分は何も持っていない」ではなく、「自分には既にたくさんのものがある」ということに気づくことが出来れば、戦争やネットで人を傷つけあうようなことは、きっと減っていく、私はそう信じています。
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