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ぼんやりとした人生

3月最後の日に、花見をした。

人生ではじめて桜の木のしたで飲むお酒は、アルコール度数がものすごく高く感じられて、脳の奥の輪郭がぼんやりとした。というか、わたしはいつもぼんやりしている。

「しっかりしてるね」「落ち着いてるね」と言われるから、そう見せるのがさらに上手になってしまったけれど、実はいつだってぼんやりしているのだ。

だから、足早に過ぎ去る楽しい時間に、自分だけが取り残されたようなきもちになる。ふらふらになりながら家路につき、具合が悪くなるとわかっていて、炭酸をがぶ飲みしたりする。たぷたぷと鳴る胃を横にして、(ああ、楽しかった記憶をまだ焼き付けてないや)なんて思って、コンタクトをつけたまま寝たりもする。

こんなふうに脳の奥もぼんやりしているが、視界はもっとぼんやりしている。滅茶苦茶に目が悪いからだ。散っているのが桜か雪かわからないレベルで、悪い。

コンタクトやメガネなどの矯正器具を外して、ぼやぼやとした家具や本棚を眺めていると、人生みたいだなあと思う。

ぼんやりとした視界が人生っぽい、という意味ではなく、自分だけの器具をつけて輪郭を捉えたり、それを外して素のままで世界に飛び込んだり、っていう往復が人生っぽい。

きっと誰もが、これまでの経験や現在の環境、価値観という名のメガネをかけていて、そのメガネ越しに世界を見ている。

でも、1日中ずっとかけているわけにはいかない。お風呂に入るときや寝るとき、つまりまっさらな自分になるときはメガネを外す。目も疲れるしね。

戦闘服を脱ぐと、とたんに身体の一部が溶け出してきて、世界と自分との境界が曖昧になる。

ぼんやりした意識の中で、ああほんとうはあの人がすきだなあとか、あの仕事をやってみたいなあとか、思う。メガネをかけて、戦闘服を着ている間は、そんなこと言えないけどさ~って笑ったりする。


よく考えたら、ちゃんとコンタクトつけているはずなのに普段からぼんやりしてる自分ウケるな。

久しぶりにnoteを書いて疲れたので、まっさらな瞳のままでお酒を飲み、ぼんやりとした世界に飛び込もーっと。

おやすみなさい、良い夢を。

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