Epi;2 桜咲く園薫る【死時計シリーズ】
~introduction2~
朝露が葉の上で少しずつ集まって、一滴の雫を落とす。彼の歩く姿は、例えるならそんな感じだ。普段なら厳かに気配を運ぶ手毬が、珍しく小走りで大樹の下の庵を訪ねてきた。
「シロ様、その」
「どうした、手毬」
「お休みのところを申し訳ありません。『開く』案件を頼まれてしまいまして」
しばらく心痛む案件が続いたので休んでください、と4時間ほど前、僕を庵に押し込めた張本人が手毬だった。素直に従い深い眠りを貪ろうと、軒先で微笑む霞人に退散いただいたところだった。
「『開く』案件?どこから?」
「『回収課』からです」
手毬が差し出したのは赤いファイル。『回収課』で扱うファイルは緑、黄、赤と3種類に分かれていて、後者ほど難解な案件になる。我が『死時計管理委員会』が扱う案件は更に難解で黒ファイルになっているが。
寝床を起きだして、窓辺でファイルを改める。すぐに手毬が冷たい蕎麦茶を出してきた。
「『体内時計』絡みの閉塞案件ねぇ」
「このようなケースは見たことがないと課長もおっしゃっていました」
「何か悪さしているの?」
「事の発端となった時間軸に断裂が起こっているようです」
「それはそれは」
時間軸が有限の『現界』で時間経過を止めてしまうほどの、想い。魂が持つ力は恐ろしい。
「すぐに支度しよう。課長に詳細データを揃えるよう依頼してくれ」
「はい…」
手毬の返答は歯切れが悪い。
「手毬?」
「『死時計』絡みの案件、ですよね?」
「心配かけて済まない」
「いえ!…お手伝いできなくて」
「『開く』は僕の専売特許だしね。触れないように気をつけるよ。手伝ってくれるというなら、迷子にならないようオンラインで時間軸の動きを随時サポートしてくれる?」
手毬は、穏やかでいて、それはそれは嬉しそうに頬を上気させる。
「力の限り、お手伝い致します」
「お前はいちいち大袈裟だね」
「はい?」
「………、まぁいいよ」
手毬のその喜び方が主に忠実な仔犬のようだと云ったら、彼はまた真剣に言葉の意味を探求しそうなのでやめておく。
さて、時間軸の断裂なんて、そうそう体験できる案件ではない。できるだけ時間軸に傷をつけないよう介入しなければ。
冷えた蕎麦茶をしたためる。喉元だけでなく、背筋をも整えるような感じがした。
Mirror’s LoverS Presents
【死時計シリーズ】
Episode;2 「桜咲く園薫る」
陽は暮れる
毎日毎日暮れてゆく
昇る陽を仰ぎ
注ぐ光に溺れ
傾く影を浴びて夜闇に沈む
かくして次の陽を待つのだ
待ち合わせの駅前広場はがらんとしていた。
風は乾いている。傾きかけた陽の光も手伝って、孤独感があふれてきた。
孤独、そう。自分は、独りになった。
父はいない。物心ついた時には母と二人暮らしで、寂しそうな顔をするから、父の事は訊けなかった。
母は片田舎のこの町で、小料理屋をしていた。女手一つで僕を育ててくれた。
その母を昨年末に亡くした。倒れてから、あっという間のことだった。
近所の大人たちが四十九日まで、親身に面倒を見てくれたけれど、他に頼る家族もなく、僕には学歴もない。小料理屋の給仕以外は酒の配達を手伝っていたくらいで、母のような料理の腕があるわけでもない。母が亡くなった喪失感を受け止める間もなく、今後の身の振り方を考えなければならなかった。
「薫くん、書生になる気はあるかい?」
「書生?」
「書生、というのは、家の仕事を手伝いながら、住む場所や学費を援助してもらう学生のことだよ」
その話を持ってきたのは、黒々としたヒゲがよく似合う、自称骨董屋の、梶田さんだ。母とは血縁関係のない遠い親戚とかで、葬式だけでなく、数年前から何度か、家を訪ねてきたと記憶している。
「ほら、君、絵を描くだろ?」
「え?」
「君が描いた桜の絵があったろう。あれ、大きな町では結構な高値がついてね」
「あれは、…母が喜んでくれるから描いていただけで」
「いや、大した才能だと思うよ?知り合いに、絵が趣味の旦那がいてね、丁度、住み込みで下働きしてくれる学生を探しているんだ」
「でも、僕、学校なんて」
「知らないのかい?美術の大学というのもあるんだよ」
梶田さんの骨董屋という職業といい、大きな町は、こことはいろいろ違うのだろうと思う。
他にあてがある訳でもない。大きな町なら、何か仕事につけるかもしれない。僕は見知らぬ町の名士にお世話になることにした。
母の遺骨を寺に預け、住んでいた店も、近所の人を頼って処分した。
文字通りの身ひとつで、梶田さんが書いてくれた覚書の駅に降り立ったのが15分前のこと。日付も時刻も間違っていないはずだ。
乾いた風がほほをすさぶ。思わず背を丸める。
「あれ」
ほのかな香り。花の香り。
そうか、桜だ。
駅前から伸びる上り坂、ごちゃごちゃした建物の間に桜並木が見えた。
ふと、母が口ずさんでいた桜の歌を思い出した。季節など気にせず、よく唄っていた。その時の母は、とてもうれしそうだった。
「もしや、園田君?」
見知らぬ男に声をかけられた。丈の長い黒い外套に、眼鏡をかけている。眼鏡なんて、田舎ではそうそうお目にかからなかった。すれ違う見知らぬ人たちも、田舎とは雰囲気の違う着物、洒落た洋装にも目移りして、田舎者が露見しているようで恥ずかしかったりする。
「ああ、これは失礼。令宝堂の梶田さんに頼まれて、お迎えにあがったところなんですが」
男は軽々しい調子で、浅く頭を下げた。令宝堂というのは、梶田さんの店の名前だ。
「園田君、で間違いないですよね?」
「あ、はい。失礼しました。園田薫です」
「銀山といいます」
差し出された右手は白い手袋をはめている。ひとまず、握手を交わす。
「お若いのに、しっかりしているね。おいくつですか?」
「じゅうな…十九です」
危ない。若すぎると雇ってもらえないかもしれないからと、梶田さんから年を誤魔化すように云われていたっけ。でも、この銀山さんも、そこそこ若そうだった。なんとなく、梶田さんに雰囲気が似ていた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。…梶田さんは?」
「急な買い付けで地方に出かけてしまって、数日、戻れないようなんですよ。代わりに迎えにいってくれと頼まれて」
「そう、ですか。えっと、…銀山さん、梶田さんのお店の方ですか?」
「いえ、自分は、まぁ、…取引先というか」
「え、銀山さんも骨董屋、ですか?」
「違います。よろず屋みたいなもので」
「よろず屋?」
「普段は書き物の仕事をしているんですが、ときに頼まれて、行先案内やら、受け渡しの手伝いやら、雑務を引き受ける仕事もしているんです」
よくわからないけれど、大きな町には、いろいろな仕事があるようだ。
「はじめての場所だと、いろいろご不便でしょう?」
「お手数をおかけします」
「いえ、これも仕事ですから。ああ、それと、…梶田さんからもうひとつ、頼まれごとをしておりまして」
銀山さんは、黒い外套の懐から封書を取り出した。
中には手紙が入っていて、確かに梶田さんの筆跡だった。戻ったら下宿先に案内するので、それまで、とある画家の家で、話相手をしながら待っていてほしい、と書かれている。
「梶田さんから聞いていますよ、園田君、絵を描くんですってね」
「あ、いえ、そんな大そうなものじゃ…」
「君がお世話になる家のご主人は、画廊巡りがお好きで、ご自分でも絵を描かれる方でね。今居る書生さんにも、絵を描かれる方がいて。…ああ、話は歩きながらおいおい。急ぎましょうか」
陽が傾いてきた。少しずつ、周囲に人の影が増えてきていた。
「では、私はこれで」
銀山さんはそういって、門の前に僕を置いて去っていった。
辺りは薄闇に沈み始めている。
案内されたのは、桜並木の坂を上った先の、奥まった一軒家だった。両隣は林のようなうっそうとした緑が広がり、背丈ほどある家の囲いが、ぼおっと浮き上がって異物感を放っている。
随分と年季の入った木造りの門。表札は「和周」と書いてある。
門戸をくぐると、美しい玉砂利が敷かれている。しゃりり、しゃりり、と、歩く音が丸聞こえだ。恐る恐る玄関で声をかけてみたけれど、応じてくれる人の気配はない。さて、困った。
ふと、風が吹いて、草や木の葉が大きく揺れた。
見れば、玄関の左側に踏み固まった土の道がある。薄闇の中、壁をつたって進み、建物の奥をのぞき込むと、薄っすらと明かりが見える。裏庭にでも続いているだろうか。
「だれか、居るのかい?」
軒下を進むと、奥から細く、低く、けれど芯の通る声が響いて、僕をおののかせた。
「気の、せいか…」
「…あの、黙ってすみません。梶田さんから紹介されて…」
慌てて声を上げた。
「あ、ああ。庭のほうに回ってくれるかい」
奥の声の主も、少し焦っている様子に聞こえた。
初対面の挨拶が肝心だ。これから世話になる町、うまく生きていくために、最初から失敗したくない。
緊張で胸を揺らしつつ、薄明りを頼って茂る木の枝を押しのけ進むと、ようやく開けた場所に出た。
そこには、僕の目を一瞬で奪う光景が構えていた。
ああ、桜だ。
大きい。
たわわに揺れる薄紅色の花びらをまとい、空を抱くように優雅に両手を広げる。
誰が見ても見事な、シダレザクラ。
薄闇の中、そこだけが切り取られたかのように、鮮やかに咲く、満開の桜だった。
耳の裏で、母の声がする。
『門をくぐって、玄関は通らず、砂利道を左に反れて、縁側に面したお庭に直接向かうの。するとね、大きく翼を広げたような、隅々まで花びらをまとった、大きな枝の一本桜があるのよ。
満開になると、それはそれは美しくて。
けれど花が散った後も、緑の葉っぱを横いっぱいに広げて、まるで、おかえりなさいと云ってくれているようで、ご用がなくても遊びにいったものよ』「綺麗だ…」
思わず、言葉が洩れた。
「そうとも」
縁側に座る老人が、貫録に満ちた眼差しで僕を見た。
縁側には、大きめの石油ランプが灯っていて、老人の顔に不気味な影を落としている。燃料入れの部分が綺麗な緑色で、家庭用にしては贅沢なつくりだと思った。
「妹が使っていたランプでね。こ洒落ているだろう」
僕の思いを見透かしたように、老人が云った。僕は慌てて、身体を二つ折りにした。
「お、お世話になります。そ、園田です。園田薫ですっ!」
焦って声が上ずってしまった。肩からかばんが落ちて、土煙を上げた。
次の声掛けを待ってみたけれど、返事はなく、折り曲げた身体をゆっくり起こしてみた。
老人は、何事もなかったかのように、うっとりと桜を眺めている。
「あの…」
なんというか、黙って座っているだけなのに、恐れ多い感じがする。
「何かね?」
しばらくおいて、ようやく返事らしい声がした。変わらず、桜を見ている。「僕は、何をしたら」
「お好きに」
「え…?」
「まあ、まず、座ればいいと思うがねぇ」
「はぁ…」
座れと云われても、並んで座るのは違う気がして、縁側の端に腰を降ろしてみた。
無言の時が流れる。
さわさわと、桜の枝が揺れる。
桜を見た瞬間、既視感があった。そうか、母がいつも夢心地で語る桜のお屋敷の風景に、よく似ている。
吸い込まれそうなほど、きれいで、いつまでも見ていられそうだ。
いつまでも?
梶田さんに、ここでこの人の話相手を、と言われていたじゃないか。
「あの…」
声を投げかけてはみたものの、なかなか返事が来なかった。
「何かね?」
「桜、お好きなんですか?」
「君は、どうだい?」
「え…」
「君は、桜が好きかい」
「………、どちらかというと好きです」
「どちらかというと?」
「あ、その、嫌いじゃないのは確かなんですけど、その、…苦い記憶、みたいのもあって」
「ほう、成程」
老人はようやく僕に振り向いた。
「聞いても、構わないかね?」
「その、母が、…亡くなった母が、とても桜が好きな人で。昔見た、一本桜の話をよく…」
あれ、なんだろう?何か、モヤモヤする。
「…薫君?」
「あ、すみません。…その」
「桜に見惚れたかね?」
「その、生前母が話していた桜の感じが、こことよく似ていて」
「そうかね」
揺れる、揺れる。桜も、景色も、記憶も、時間も。
「ここはね、一度、火事で燃えたのを、建て直したんだ」
「え?」
「桜の木も例外ではなくて、火事の時、炎に包まれたんだよ」
老人の声が脳に木霊する。なぜか目の前が真っ赤になった。
吹き荒ぶ熱風。バキバキと亀裂音が連鎖する。
「桜子っ!桜子~~っ!」
「来ないで!」
「さ…」
「嘘だと云って!」
「ああ、…ああっ!そうだ!何かの間違いだよ。だから、桜子…」
「嘘つきっ!薫さんのうそつきっ!」
燃え盛る屋敷が桜と共に崩れていった。
そう、桜子さんと出逢ったのは、満開の桜の木の下。
私は17歳、彼女は16歳。
「さくらって不思議。咲く様も散る様も胸の奥を鷲掴みにするんですもの。
どうして、こんなに惹かれるのかしら?
美しく咲いて、美しいまま散りたいと、願っているのかしら?
咲き誇るひとときの美に酔いしれる。まるで自分の過去と向き合うような?
これがノスタルジアってことかしら?」
携える教科書の詩編を読みながら、桜子さんは柔らかい微笑みで私を見つめた。
「あなたは確か…」
「園田です、園田薫です」
「お父様からお名前は聞いてますわ。美しい桜を描かれる方だと」
「きょっ、恐縮です」
「お父様が云ってらしたわ。あなたの絵を、今度の展覧会に出品するって」
母のために描いた件の桜の絵、梶田さんから旦那様に渡ったというその絵は、展覧会で最優秀賞を取り、その後は驚くほど絵の仕事が舞い込んだ。
旦那様のご厚意で、美術の大学に通いながら、私はひたすら桜を描き続けた。
翌年、町中に小さな画廊を開いていただいた。それと、お屋敷の離れを専用のアトリエとしてあてがっていただき、私はますます、描画に没頭した。
桜子さんはしばしばアトリエを訪れるようになった。年齢が近かったこともあるし、桜子さんは離れの桜が大好きで、私たちは桜や、日々の景色や、ほんの些細な日常の出来事を通じて、小さな幸せを共有する時間を過ごしていたと思う。
しかし、桜子さんが女学校を卒業するころ、少し事情が変わってきた。
旦那さまの事業で大きな赤字が出て、会社は芳しくない事態になっていた。旦那さまにお預けしていた絵画の代価も瞬く間に消え失せ、製作途中の絵さえも、抵当に入るという始末。
いよいよ後がなくなるという時、桜子さんに縁談の話が出た。資金提供を前提とした政略結婚なのは明らかで、相手は桜子さんの倍の歳の、いわゆる成り上がり商社の取締役だった。
「嫌よ」
「桜子…」
「お父様はずるい。薫さんの絵も、お店も売ってしまったのよ」
「僕がここまでやってこれたのは、旦那さまのおかげなのだから」
「違う、そうじゃなくて。…桜子は薫さん以外、考えられないのに」
私たち二人の事情も変わっていた。私と桜子は心を通わす仲になっていた。幸い、抵当にはいるにしても高値がつく私の絵は、後ろ盾になりたいと手を挙げてくださるお大尽も多くいて、あるいは私の絵で、赤字を挽回することが出来ないだろうか、と画策した。
寝る間も惜しんで取引先を探し、資金繰りの目処が立ったところで、私たちは旦那さまに私たちの想いを打ち明けることにした。
「ならんっ!ならん、ならん!」
旦那さまは、それまで見た事もない剣幕で怒号した。怒り狂う様は、鬼神のように荒ぶっていた
「薫よ、お前に目をかけたのはもちろん、才能があったからだ。だが、もうひとつ理由がある」
旦那さまの口から放たれた言葉は、非情で残忍なものだった。
「お前は、俺の息子だ。桜子とお前は、腹違いの兄弟だ」
縁側の石油ランプの炎が、大きく揺れた。我に帰ると、年老いた画家が、変わらず、桜を眺めていた。
気づけば、私の手にも皺が無数に走り、背筋もそう、隣に座る老画家と同じように、ゆるやかに湾曲している。
「思いだしたかね」
問われたが、すぐには答えられなかった。
彼は、私だ。
私は、彼だ。
桜子は、私が愛した女性。
私の腹違いの妹で、自分たちが兄弟と知ったその日、桜の木の下で焼身自殺を図った。
お気に入りの石油ランプを持ち出して、桜に投げつけた。石油を浴びて、桜は瞬く間に燃え上がった。風が強い日だった。桜子は木の下で、炎に包まれた。
「嘘つき」と叫んだ、悲鳴のような声。彼女が最後に放った言葉が、今も耳に残る。
桜の木だけでなく、燃え移った屋敷も半壊し、庭と面した隣の家の一部も焼けた。その賠償金も加わって、赤字をとりもどすことは困難となり、父は事業をたたんだ。
懸命に助け出した桜子は、火傷こそ軽傷だったけれど、目覚めたとき、心を失っていた。
私の方は火傷がひどくて、動けるようになるまでひと月半かかった。
私をこの町に招いた髭の骨董屋は、もともと父の使いで、母と私の様子を見に来ていたらしい。火事の後は、絵画の販売独占権を担保に、私と桜子の生活の面倒を見てくれた。
父は私たちの回復も見届けず、姿を消した。風の噂では、知人の縁を手繰って貿易会社の海外赴任を請負い、数年後、外国で骨を埋めたらしい。
「なぜ、今まで忘れていたんだろう…」
耳の裏で秒針の音がする。
「なぜ、私は2人いるんだ?」
「それは、私が説明致しましょう」
桜の向こう側の闇から、割って入るように男が現れた。
髭の骨董屋。…いや、違う。
骨董屋に見えたそれは、長く黒い外套を纏った、眼鏡の男に変化した。
「銀山、さん…?」
「ええ」
眼鏡の奥の瞳が、紫色に光る。男は句読点のような咳ばらいをした。
「改めまして、自己紹介をさせていただきます。私、死時計管理委員会、突然死救済係より参りました銀山、と申します」
「死…の時計?黄泉の使いか?」
「まぁ、遠からず、と申し上げておきましょう」
ふてぶてしい様が鼻につく。けれど、彼は回答を持っているようだ。
「園田さんは、輪廻転生という概念はおわかりですか?」
突然湧いた言葉に正直、首を傾げるが。
「ことばの意味は知っているつもりですが…」
「結構です。それをふまえてお聞きください。
これからさせていただくのは、あなたがどこからやって来て、どこへ逝くのか、というお話です。
あなたご自身は、魂という存在です。本来、天界という美しい世界に生まれるはずだったのですが、魂には幾ばくかの穢れがあり、穢れを払うまでは、天界に生まれることが出来ません。穢れを払うため、肉体をまとい、ここ、現界で何度か生まれ変わる、それが輪廻転生です。
生まれ変わるたび、記憶はまっさらな状態になりますが、体験や経験、功績は『徳』として上書きされていきます。
天界に転生するにはある一定の徳を積む必要があり、一度の生では積み切れず、何度が生まれ変わるのが定石です。この繰り返す転生の運営を円滑に行うため、現界に誕生するとき、魂はその中に『生時計』と『死時計』という、ふたつの時計を持って生まれてきます。
生まれた瞬間は、夢と期待を抱いて、『生時計』すなわち生きる時計、を廻し始めますが、人生のある時期、例えば病気になったり、身近な誰かの死に直面したり、何らかのきっかけで、自分がいつか死ぬ事を悟ります。死をより具体的に想定したとき、それまで廻してきた『生時計』から、自分が死ぬまでに何を残そうかと逆算する『死時計』に切り替わります。
順当な人生ですと、『生時計』から『死時計』に切り替わり、徐々に死を受け入れ、死亡した後は次の誕生の準備をする『輪廻転生の輪』に正しく組み込まれていくのですが、何らかの事故が起き、稀に輪廻転生の輪に戻れない、転生の迷子になってしまう方がおられます」
「私がその、転生の迷子、だと?」
「はい、そして、実は更に稀な事例でして」
「稀?」
「ええ、あなたは、同時に廻る筈のないふたつの時計を同時にまわしている、非常に珍しい事例です。私は本来、『生時計』を廻しながら死に直面した魂を救済する立場にあるのですが、二つの時計を廻すあなたの現状が『生時計』を廻しながら死に直面している、という条件下にあてはまる、ということで、回収課ではなく、救済係にお迎えの仕事が回ってきまして」
訳の分からない話になってきた。
「そうですよね。すみません。平たく言いましょう。園田さん、桜子さんが亡くなった時のことは覚えていますか?」
身体の芯で鼓動が鳴った。火事の後の記憶が竜巻のようになだれ込んでくる。
桜子が死んだ。
瞳は光を宿すことなく、唇も言葉を発することなく。第3者の手を借りながら、世界の片隅で細々と生を営んできた桜子が死んだのは、火事から3年後のこと。
たとえ見つめてくれなくても、たとえ名を呼んでくれなくても、生きていることが支えだった。
私と、もうひとりの私の鼓動が共鳴する。
「あの日、桜子を見送った日、われわれは割れてしまったのだそうだよ」「割れた?」
「ええ、『生時計』と『死時計』は表裏一体。ふたつでひとつ。『生時計』の背中合わせに『死時計』があり、一度『死時計』に切り替わると、『生時計』に戻ることがない。そのため、本来ふたつ同時に廻ることはないのです。しかし、桜子さんが亡くなる瞬間、桜子さんの死を受け入れたあなたと、受け入れることを拒否したあなたが、それぞれ強い意志を持ち、おのおの『生時計』と『死時計』を携えて分断してしまったようなのです」
私は、もう一人の私を見る。気難しそうな面構え。けれど、悟りを得た、奥深い表情をしている。
一方、この私はどうだろう?
「受け入れられなかったあなたは、桜子さんと出逢う前の時限まで『生時計』の時の記録を遡り、そこにとどまっていたようです。表裏ふたつの時計が揃わないと、次の転生にご案内することができないのでね。お探しするのに、骨を折りました」
「探した?」
「私には、時を遡る力がありまして。失礼ながら、あなたが留まっている時間に梶田という手段を使って入り込ませいただきました。記憶の時計を動かすため、本来の記憶にはない介入を致しました。記憶の一部に齟齬が生じるかもしれません。お詫び致します」
ああ、なんて滑稽な話だろう。私は、桜子の死を受け入れることができず、桜子と出逢うまえの時間で彷徨っていたということか。我ながら、情けない話だ。
「そうでもないさ」
もうひとりの私が、口元に笑みを浮かべた。
「桜子を失ってからの私は、ひたすらに桜を描き続けた。地方に美しい桜があると聞けば出向き、美しい並木があると聞けば赴き、さまざまな桜を描きとめた。けれど、どの桜も、私の心を満たすことがなかった。なぜなら」
~ここに最高の桜があるのだから~
私たちの声にこたえるように、花びらが舞う。
「私は何かを忘れていると知っていた。それがこの桜だ。あの日、炎に包まれ、二度と花をつけることのなかった桜に、君の記憶が、満開の花を持ち帰ってくれたんだね」
「じゃあ、この桜は」
「私たちの記憶の中に咲く、今はなき、私たちの、私と桜子の想い出の桜だ」
『さくらって不思議。
どうして、こんなに惹かれるのかしら?
まるで自分の過去と向き合うような?
これがノスタルジアってことかしら?』
「ああ、桜子が」
「桜子が迎えに来た」
今ならわかる。私は何かを忘れていると知っていた。
時を遡り、心のアルバムを紐解き、大切な、大切な、忘れ物をさがしていたのです。
【Next Episode;カルシウムと僕】
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