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歴かなで書きたい

かつて丸谷才一にあこがれた日

 最初に歴かなで書きはじめたきっかけは、高校生の頃に読んだ丸谷才一だ。インタヴュー本の『思考のレッスン』や『文学のレッスン』を読んで、筒井康隆が『創作の極意と掟』に書いたやうに、造詣が深くてすごいとあこがれたものだった。それで丸谷が書いた本を読んでみたら歴かなで書いてあり面喰らった(気がする)。しばらくは丸谷のエッセーにぞっこんだった。
 そのあとに『完本 日本語のために』を読んで、現代かなづかい批判に初めて触れ、歴史的かなづかひと現代かなづかいの関係を知ったり、現代かなづかいの矛盾を知ったりして、え、歴かなのほうが言葉の由来もわかるしいいぢゃないかと思ったのだ。あと白川静の常用字解を読んだりして、ますます歴かなと正字の魅力に引き込まれていった。

丸谷軍団にあきれる

 実のところ、いまはあまり丸谷に関心がない。丸谷の露骨な党派的集団主義を知って、いやだなと思ったからである。丸谷派の流れを簡単に示せばこんな感じだ。
  石川淳 → 丸谷才一 → 池澤夏樹・辻原登
丸谷は石川を尊敬してゐて一種の師弟関係だった。同じやうに、丸谷と池澤・辻原も師弟関係だった。調べてみるとそれが露骨にわかる。
 たとへば、辻原は芥川賞、読売文学賞、谷崎賞をもらってゐるが、それらの賞の選考委員にはすべて丸谷がゐる。
 あるいは毎日新聞の日曜日の書評欄は、はじめ丸谷が編集顧問として担当した。丸谷の死後は池澤が編集顧問を担当した。その池澤は毎日新聞社の毎日出版文化賞書評賞の選考委員をつとめた。しかも2013年の書評賞は辻原の『新版 熱い読書 冷たい読書』へ授与された。
 明かに派閥がある。夏目漱石の個人主義とはほど遠い、集団主義的なお友達授賞や師弟関係、派閥、党派もここまでくるといやらしい。文壇って、すごく政治的なのだ。これらはほんの一例で、掘ればざくざく出てくるだらう。ちなみに昨年出た新潮文庫版の筒井康隆の『モナドの領域』を見たら、解説の池澤が、ちゃっかり師匠丸谷の『輝く日の宮』をすすめてゐて苦笑した。
 それにくらべ、丸谷が群像新人文学賞で見出した村上春樹は、ずっと徒党を組まずに個人主義で小説を書いてきた。『職業としての小説家』を読むと、かれが単身でアメリカの出版社と交渉したことがわかる(「第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア」)。孫引きになるが、村上の「文壇」の定義を載せておかう。

大手出版社文芸誌ネットワークに支えられた業界

週間読書人 2022年3月11日号 栗原裕一郎・豊﨑由美「追悼=作家・石原慎太郎」

私の歴かなのスタンス

 で、歴かなの話にもどると、一口にかなづかひといっても、人によっていろいろ方針がある。全部旧字で書いたり、あるいはカタカナも例へばウイスキーをウヰスキーと書いたりする人もゐる。
 私のかなづかひの方針は、だいたい丸谷式にのっとってゐる。
 その方針を紹介するまへに、まづ言っておく必要があるのは、私はべつに現代仮名遣いでもいいと思ってゐることだ。歴かな派には現代仮名遣い排他主義者もゐるが、私は現かなを嫌悪してゐないし、むしろただ歴かなが好きなだけである。

べつに現代仮名遣いでもええやんといふ精神

 だが、要するに、正かなづかいというのは、徳川時代にはかなりいい加減に使われていたということである。(略)つまり正かなで正しく書くというのは大変なことである。法則性がないのだから。
 これに比べたら、新かなづかいというのは素晴らしいシステムで、一通りの法則性を覚えれば誰にでも間違えずに書くことができる。明治から昭和戦前の人は、あのまったく法則性のいい加減な正かなづかいを、懸命に学んだのであろう。(略)
(略)戦前の教育を受けた人が新かな、新漢字に抵抗を示したのも分からないではないが、どっちが理論的に学びやすいかといったら、やっぱり新かななのである。正かなは、読めるように学ぶのはいいけれど、書くほうに使うのは、やりたい人はやればいいけれど、別にそれが正しいのだと思い込むことはない。福田恆存も、今考えると、実は正かなづかいがいい加減に使われていたという事実は、おそらく知っていて隠蔽していたのである。

小谷野敦『徳川時代はそんなにいい時代だったのか』中央公論新社

 これは、ある程度はやはり正しい。
 歴かなと現代の日本語の音韻とをくらべると、歴かなに法則性がないのはそのとほりである。たとへば「机」といふ音声を聞いただけでは、そのかなづかひが「つくえ」なのか「つくゑ」なのかはわからない。音とかなが対応してゐないから、いちいち覚えるしかない(この場合はつくえが正しい)。
 まあ、これは現かなも同じだ。たとへば、父さんは「とうさん」だが、氷はこうりではなく、歴かなにのっとって「こおり」と書く。現かなの法則は不徹底だ。でも、現代仮名遣いのほうが明かに、歴史的かなづかひよりも覚えやすい。手間がはぶける。
 歴かなにはゆれもある。たとへば「泥鰌」は、どぜう、どぢやう、どじやうなど、いろんな表記がある。どれが由来的に正しいのかは、まだわかってゐない。
 まあ、これも現代仮名遣いでは同じだ。稲妻は「いなずま」「いなづま」のどちらでもかまはないし、世界中も「せかいじゅう」「せかいぢゅう」のどちらでもいいことになってゐる。不徹底である。でも、現代仮名遣いのほうが明かに、歴史的かなづかひよりも迷はずにすむ。
 ただし歴かなのゆれの問題は、文献調査や研究が進めばおのづと改善するだらう。たとへば、コトバンクの精選版日本国語大辞典で「泥鰌」を引くと、かう書いてある。

[補注]語源未詳で、歴史的かなづかいについても「どぢゃう」「どづを・どぢを」「どじゃう」「どじょう」「どぜう」などとする諸説があるが、「ぢ・じ」「ちゃう・ちょう」に発音の別が存した室町期の文献に「ドヂャウ」「土長」の表記がみられるところから、「どぢゃう」とする説に従う。

精選版 日本国語大辞典「泥鰌・鰌」

 要するに、それぞれのかなづかひにも利点はあるのだ。現代仮名遣いには、現代の日本語の音韻にわりとのっとって書けるといふ利点がある。歴史的かなづかひには、かなづかひで日本語の由来がわりとわかるといふ利点がある。ただそれだけのことだ。片方の利点がもう片方を凌駕するとは思ってゐない。
 だから、私はどっちがよりいい、なんてことを言ふつもりはない。

 だが、私は新仮名遣いを教えられて育ち、新仮名遣いで書くのが自然になっている。その自然をしいて押し曲げて正仮名遣いで書くほどの理由をどうしても見出せないので、新仮名遣いで書いている。
 私は若いころ、正かな遣いで書くと文章が良くなるのではないかと思ってやってみたことがあるが、効果はなかった。(略)
(略)理論的には新仮名遣いというのは中途半端な、しかも上から押し付けられたもので、正仮名遣いで書くのは正しい。

小谷野敦『文章読本X』中央公論新社

 日本人の大部分が《正仮名遣いで書くほどの理由をどうしても見出せないので、新仮名遣いで書いている。》に当てはまるだらう。もっと範囲を広げれば、日本語ぢゃなくて、べつにどの言語でもかまはないといふ人も多いはず。
 私は以前、井上ひさしに共鳴して、言語は道具ではない説に賛同したことがある。でも、伝達手段としての言語はやはり道具である。伝達すること自体は必要不可欠な要素でも、伝達するための伝達手段は道具だ。どんな言語でも絵でも手話でも点字でも、伝達能力はある。

『知性』(一九五六年一〇月号)読者投稿特集によれば、新かな支持派三十一名、旧かな支持派五名、中立派三名である。水は低きへ流れる。というか、強固な反対論をよそに、新かなはさしたる抵抗もなく人々に受け入れられた。政策として強制されたといえばそれまでだが、前にもいったように、表記法なんてどのみち恣意的なものである。よほどの反対理由がないかぎり、人々はそれに従う。新かなの導入によって国民的なリテラシーが上がったか落ちたかは計測のしようがないけれど、戦後、識字率が百パーセント近くにまで上がり、高度経済成長期を境に高校・大学進学率もめきめき上昇したことを思えば、少なくとも「急激に落ちた」とはいえまい。

齋藤美奈子『文章読本さん江』ちくま文庫

 《表記法なんてどのみち恣意的なものである。》とは、そのとほりだ。
 結局、私が歴かなを使ってゐる理由をつきつめて考へてみると、たんに「かなづかひで日本語の由来がわりとわかる歴かな」のほうが好きだからといふ理由しかわいてこない。これは、ジョージ・マロリーが「そこにエヴェレストがあるから」と答へたのと、さう違はない気がする。


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