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【イングルヌック】創設・飛翔・暗黒・復活のすべて

本日は弊社敏腕ライター!?のTが、イングルヌックの歴史を紐解きました。
非常に重厚で濃厚なワインのような文章で、読み応えたっぷりな仕上がりです。
カリフォルニアワインの重要な歴史の1ページを、丁寧に書き上げた大作ですwww
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黎明期のワイナリー


カリフォルニアの「第一世代」と言える黎明期(19世紀)から続く歴史あるワイナリーと言えば、ファー・ニエンテ(1885年)、セバスチャーニ(1825年)、シュラムスバーグ(1862年)、マヤカマス(1889年)などありますが、現在も続いてるって本当に凄い事だと思いませんか。
100年以上も存続し、ワイン造りをされている事に、私は奇跡だと思います。
ちなみに、
100年前の日本は、大正時代。
150年前だと、明治時代。
途方もなく、昔のように感じますね。苦笑
さて、前振りが長くなりましたが、そんな時代から存続するイングルヌックの壮絶なお話をしたいと思います。


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イングルヌック・ヴィンヤード(ニーバム編)

フィンランド人のグスタフ・ニーバムによって1879年に設立されました。当時のフィンランドは、ロシアの一部であり、グスタフは、オットセイを捕獲した毛皮を販売して資産を築いた起業家でした。
妻の影響もあり、冬の厳しい寒冷地ではなく、暖かい土地で、フランス式のエーステートワインを造るべく、ナパに降り立ち、ワイナリーを始めたそうです。
黎明期のナパにヨーロッパのブドウ品種を持ち込み、ワイン造りをスタートさせたのですが、 イングルヌックの名声を高めたのが、妻の甥っ子にあたるジョン・ダニエル・Jr.です。
今では、伝説とされる彼は、当時からマイクロ・クライメイトを大切にし、一定幅での植樹、収量制限など、現代の栽培学にも繋がる事を始めていました。
1936年には、念願が叶いワイナリーオーナーとなりましたが、当時は、禁酒法が終わったばかりの不況下で、さらに第二次世界大戦などもあり、米国内では、ヨーロッパのワインが入手困難となり、安価なバルクワインが求められる時代でした。
当時のワイナリーでは、バルクワインを薄めたり、アルコール添加したりする人もいた中、ジョンは、自身でボトリングをし【pure wine】と表示していました。
仏ボルドー地方の生産者が直面した品質保証の問題とも重なりますが、ジョンの強い情熱が、pure wineに込められ、イングルヌックの名声を高めたのです。
しかし、それも長くは続かず、私生活での価値観の違いで、彼は妻と離婚し、失意の中で、情熱の全てをかけたワイナリーを売却せざるを得なかったそうです。
売却されたワイナリーは、彼の人生とも言える「イングルヌック」の名で、ジャグワイン(安価なワイン)が大量に販売される事によりジョンは、精神的にとても辛い思いをしました。
しかし、それをどうする事も出来ずに、彼は睡眠薬が手放せなくなり、最後は、心臓麻痺で亡くなってしまいます。
その後、さらに、
幾度かのワイナリー売却の過程で、「イングルヌック」という名称をも、このワイナリーで名乗れなくなったのですが、この歴史的なワイナリーの再起を願うべく尽力を尽くしたのがフランシス・コッポラでした。

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ニーバム・コッポラ・エステート編


コッポラ・ワイナリーのオーナーであるフランシス・コッポラが1975年に、このワイナリーの一部を購入したのが、再起へのキッカケとなります。
コッポラは、20年以上もかけて分割された畑の買い戻しを始めたのです。しかし、依然として「イングルヌック」の商標権は、別のワイングループが所有していたので、グスタフへの敬意を込めて、ワイナリーの名称を「ニーバウム・コッポラ・エステート」と名乗っておりました。

創業当時のように、昔と同じフランス式のシャトーを改築したり、醸造設備も一新し、偉大なワイナリーを復活させます。
そしてついに、2011年4月に念願の「イングルヌック」の商標権を取得する事に成功しました。
そこで、晴れて歴史あるワイナリーのオリジナルの名称で、ワインを造る事が出来るようになりました。
「イングルヌック」と名乗る為に、コッポラは時間やお金、多大なる労力をこの偉大なワイナリーの為に尽くしてきたのです。
歴史あるワイナリーには、表面では分からない、壮絶なストーリーがあります。この壮絶なストーリーを紐解きながら、グラスを傾けて頂きたいと思います!

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イングルヌック ルビコン ラザフォード ナパ・ヴァレーhttps://www.wineinstyle.co.jp/wines/product_detail.cfm?pdtID=11769