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魔法の師匠と温泉にいくはなし



 ぼくは山道を歩いていた。魔法使いになるための修行で、山奥にあるという温泉へ向かっているのだ。
 ぼくに魔法を教えてくれる師匠は、ぼくの一歩前を悠々と進んでいる。荷物をぼくに持たせて身軽なのだろう、鼻歌を歌ってハイキングを楽しんでいる。
 師匠と出会ったのは二週間前だった。登戸駅で電車の乗り換えをして小田急線へと歩みを進めていたぼくに師匠が声をかけた。君には魔法の才能がある! が師匠の第一声だった。師匠の歳は二十代の半ばか多めに見積もっても三十代の前半で、ほとんど同年代だった。師匠と呼ぶような貫禄はないが、ぼくには師匠と呼ぶように強いた。修行をするからには師匠と弟子の関係がマストらしい。
 山には遊歩道があり、他の登山者の方ともすれ違う。こんにちはーと登山者がすれ違い際に言うので、師匠もこんにちはーと返した。ぼくが黙っていると、師匠は「なんで挨拶かえさないんだよ」と言った。つかれてるんすよ、とぼくが言うと、「そんなもの担いでいるからだろ」と言った。ぼくが背負っているバックパックを詰めたのは師匠で、ぼくの荷物はほとんど入っていなかった。でも口答えせずに黙っておく。ここでなにかを言ってもうるさいだけだ。

 登り始めて四十分が経ったころ、山道のなかに旅館が見えた。まさかここではないだろうと思っていると、師匠は振り返って「ようやくついたな!」と言った。
「目的地ってここですか?」
「うん、いっただろ、温泉って」
「山奥の温泉っていったじゃないですか」
「ここは山奥だろ」
「駅から四十分のハイキングコースですよ。しかも温泉旅館じゃないですか。秘湯とかでないんですか」
「そんなのガイドブックにのってるわけないだろ」
 師匠はぼくの背負ったバックパックをあけて、一冊の本を出した。なんてことのない、市販の。どこの本屋にでも置いてある観光案内のガイドブックだった。
「修行じゃなかったんですか?」
「ここで温泉につかることが修行になるんだよ。さあ、はいろう」

 旅館の前には駅と旅館を結ぶシャトルバスが停まっていた。ロビーでは湯上がりの客が涼んでいて、食事処やマッサージは平日の昼間なのに混んでいた。客層をみるとほとんどがお年寄りだった。若い客はぼくらだけだ。
 番台を通り、脱衣所にはいった。
 ぼくの背負っていたバックパックのなかにタオル等の温泉にはいる必需品はそろっていた。師匠は律儀にぼくの分も用意してくれていて、新品のタオルを持って浴室の戸を引いた。
 内風呂には大きな湯船が一つと、水風呂や薬湯の小さな湯船が2つ。あとはサウナと洗い場と露天風呂へ続く扉があった。
 師匠はかけ湯をしたら、露天風呂へ向かった。「お前もこいよ」と師匠がいう。
「ぼくは先に体洗ってからはいりるんです」そう断って洗い場へむかった。
 洗い場に備え付けのボディーソープで登山の汗を流し、シャンプーとコンディショナーで髪を洗った。普段はシャンプーしか使わないが、おいてあるのでコンディショナーをつかった。コンディショナーがどういう効果を持っているのかしらない。

 内風呂にはいって体を温めたあと、露天風呂にはいった。師匠はずっと露天風呂に浸かっていたらしい。ぼくが湯船にはいってきたときにはふやけていた。
「いい湯ですね」ぼくは言った。素直にそう思った。
 師匠はそれにはなにも応えず、目をつむったまま何かを考え込むように静かに湯に浸かっていた。ぼくは露天風呂の景色を観察した。天然の岩の窪みに湯が張ってあり、そこを湯船として使っている。背の高い衝立の向こうに山の木が見える。なんの木かはしらないが、初夏の青々とした葉っぱが爽やかで良い気分になる。こんなに穏やかでいい気持ちになると、一気に自分が老けた気がする。将来の不安も払っていない年金のこともNHKの受信料を滞納していることもアパートの修繕費を求められそうな傷のこともすべて何とかなった気がした。もうぼくを落ちこますことはできないぜ。

 風呂からあがって、師匠とコーヒー牛乳を飲んだ。備え付けのリクライニングチェアーを限界まで倒し、いつでも眠りにつける体制になりながら、師匠にきいた。
「結局きょうの修行ってなんなんだったんですか?」
「こうやってすごすのが修行なんだよ」と師匠は言った。
 師匠はどこからか取り出してきた魔導の書を開いて、ぼくに見開きのページをみせた。
「この魔法はリラックスした気分のときにしか使えないんだ。いまのお前ならここに書いてある呪文を唱えたらつかえるぜ」
 魔導の書にはなにかのほほんとしたイラストと、読めない文字の効果書きと、とりとめのないひらがなの羅列にしか見えない呪文が表記されていた。
「今日の魔法はどんな魔法なんですか?」
「不老不死になる魔法」
「いきなりとんでもない魔法っすね」

 結局ぼくはその呪文を唱えずに帰った。いくつかのフィクションで不老不死の苦悩なんかを目にして尻込みしたのだった。師匠はあきれて「なんじゃそりゃ」と言っていたが、もうしばらくは人間としての苦悩を味わっておくのだ。

おわり


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