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「いいひと」になることをやめた

「いいひと」になろう。まだ若かった頃のわたし、そんな風に密かに決意して日々を過ごしていたことがあります。普通、こんなことはわざわざ他人に言ったりすることじゃない、それはわかってました。


当時のわたしの中での「いいひと」の定義は


・犯罪になるようなことをしない
・困った人がいたら、無碍にしない
・他人が良ければ、自分を犠牲にしても構わない
・みんなに「いい人だね」って言われるべき
・みんなが幸せになればいい


だいたいこんな感じでした。そしてなるべく、そういう行動を取るように努めて生きていた頃があります。だけど、今考えると、これってかなり無理がある設定なんですよね。


若気の至り、っていうやつですよね。


もうお分かりだと思いますけど、上の理想をおいかけても、「いいひと」にはなれなかったし、むしろ、中途半端に「いいひと」を演じたことで、かえって他人とうまくいかないということに何度も遭遇しました。


そういう時って、周りが見えていないというか、なんというか、うまくいかない理由を、自分の中に求めすぎてしまうんですよね。


きっと「いいひと」レベルが足りてないんだ、もっともっと「いいひと」にならなくては!って息巻いて取り組んでいたんです。


でもですね。


そういうのはどこかで限界が来ます。結局、わたしはスーパーマンでもなければ、神様でもない、ただの人です。ましてや「いいひと」でもなかったんです。


最悪の関係になったときの会話。


相手「偽善者!嘘つき!」

わたし「そんな言い方ないでしょ、一生懸命頑張って、あなたのために、良かれと思ってやってきたのに・・・」


まぁ、この後の展開はお察しのとおり。


「いいひと」になろうとして奮闘したわたしの努力はどうやら間違っていたのです。


そもそも「いいひと」になろうとするのが間違い。考えてみると、「いいひと」になろうと思って、なるじゃなくて、気がついたらなっているものですよね。


「わたし、いいひとになります!」なんて宣言されても、その人に対する感情としては「あっそ、がんばってね」か「なんか、胡散臭いな」で終わってしまう。


「いいひと」かどうかは、わたし(自分)が決めるんじゃなくて、わたしに関わる、周りの人が、わたしをみてどう判断するかのはず。


わたしが「いいひとでしょ!」なんて強弁するのはおかしいです。


ここにわたしの間違いがあったんですよね。お恥ずかしい限りです(汗)


「周りの人が自分の幸せ」そこまで言い切れるほどわたしは聖人君子でもなく、結局は「自分がしあわせかどうか」を探究するただの人ってことです。


自分が幸せかどうかもわからないのに、他人がしあわせであってほしいって、無理があるように思います。きっと、「いいひと」に励んでいたときは、わたし自身はしあわせではなかったと思います。


自分の意に沿わないことでも、他人に合わせ、他人に迎合し、他人の顔色を伺い、他人が良いと思うことを実践してきた。でもそれって、本当に「自分の幸せ」だったのかと思うと・・・。


答えは自明ですよね。


他人への気遣いがないのは問題ですけど、身近な存在である「自分・わたし」に対して、少し蔑ろにしていた部分もあったかも知れません。


意に沿わないことをやって、相手のためにと頑張ってはみたものの、そこにはもしかしたら「誠意」がこもっていなかったのかも知れない。そしてそれを相手が感じ取ってしまったら、「言ってることと、やってることが違う」と感じられてしまったのかも知れない。


それなら、偽善者、嘘つきと罵られても仕方なかったのかも知れません。


「いいひと」になれるなら、理想ですけど、わたしにはその能力・実力もなければ、器量もなかった。それなら、自分の幸せをまず追求するのが先です。


「いいひと」に自らなるんじゃなくて、気がついたらなっていた、そして周りの人が「いいひと」だよねって言ってくれた。それでいいじゃないか。


そう考えたら、わざわざ「いいひと」であることをやろうとしない、自分のやりたいことをやればいい、そう考えを切り替えることにしました。


犯罪を犯そうとは思いませんけど、必要最低限、人間らしい振る舞いをして、矩を超えず、淡々と自分のために生きていけばいい。


自分が生きることで、誰かが幸せになり、結果、「いいひと」って呼ばれるぐらいで十分と思えばいい、そう思えたら、いいひとである必要はなくなりますよね。


いいひとは目指すものじゃなくて、気がついたらなっていればいい。むしろ、いいひとである必要もないというのが、結論になるかと。


それでは、また。


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