電池が切れたときの虚しさ
とある製品の電池が切れました。電池が切れたことで、その製品は製品としての機能を失い、無用の長物と化しました。電池が切れたから、新しい電池に交換すれば、また動かすことができます。
古くなった電池を外しますが、新しい電池を入れ替えるまでは、全く何も動きません。それはある意味、そのモノの宿命でもあります。
電池の在庫を持っていないので、わたしは明日にでもこの新しい電池を買いに行かなくてはなりません。余計な在庫を持たないようにしているので、それは仕方のないことです。
でもですね。
ここで少し考えました。電池交換をすれば確かに、元通りになるのですが、電池を新しいものに変えるまでは、その時間が長いから、そして短いから、どちらにしても虚しさを感じませんか?
ふと思ったのが、その虚しさ。
電池が切れるということは、最後の瞬間だけ「動く」のですが、その動きもどこかぎこちなく、動きも悪くなっていることがほとんどです。
電池が減って使えなくなるときというのは、ある日100%の動きをしていたのが、いきなり0%になるのではなくて、階段や坂を転がり落ちるようにパフォーマンスが落ちて、最後には全く動かなくなる。
そういうプロセスを辿って「電池切れ」の状態になりますよね。
そこに至るまでの過程が、なんとも寂しいというか、悲しいというか。
線香花火というのがありますけど、線香花火が小さく火花を散らして、最後を迎える直前に赤くわずかに光る珠光になって、そして最後に消えて落ちる。それと同じような感じと言ったら、わかってもらえるでしょうか。
とにかく、「電池が切れる瞬間」というのに虚しさを感じませんか。
アナログな置き時計、これも電池が切れかけると、秒針や長針を動かすパワーがもう、電池には残っていなくて、動いてはいるけれども、秒針や長身が同じところにずっと止まっているという光景を見たことは何度もあります。
それを今、思い出して考えると「電池が減ることの虚しさ」を感じずにはいられません。いきなり止まるというよりは、頑張って、もがいているのに、報われない、そんな哀愁を感じませんか。
わたしは、電池が切れたとき、切れかけた時にそんな虚しさ、哀愁を感じます。
理想を言えばそんな瞬間は見たくない。そして「電池を交換するのは、やっぱり手間」でもあるから、なおさらそのような境遇に遭遇したくはない。
でも、仕方のないこと。
電池を使ったモノは、わたし達の身の回りに溢れているから、そういうのを全く感じずに過ごすことは難しいです。
電池のストックを増やせば解決するわけじゃないんです。
理想的には「永久に持つ電池」があればいいのですが。
それでは、また。
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