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私のことを知らないまま、私が作ったものを見てくれるnoteと言う場所

私は、noteを読んでくれる人へ、現実に仲いい友達よりも、私のことを見せている気がする。

Instagramも、Twitterも、フォロワーのほとんどは、中学の友達、高校の友達、大学の友達だ。先に現実で仲良くなってから、SNSを教える。その流れが私の当たり前だった。

身近な小さなつぶやき、140文字。きらきらした出来事の写真、1枚。今そのときのことを自慢したいストーリー、24時間。

私を知ってる人が、私の投稿を見ている。私という人が投稿していることをわかったうえで見ている。そういう感じ。

だけど、noteはちょっと違う。

フォロワーの中に、中学の友達、高校の友達、大学の友達はいない。これを書いている私のことを知らない人のほうがたぶん多い。現実では、会ったこともない人だっている。これを読んでくれているあなたも、私のことは恐らく知らないかもしれない。

それがnoteのすごいところだなあ、と私は思う。

「私」という人から出会うんじゃなくて、私が作った「もの」から先に出会ってもらえる。

Instagramも、Twitterも、私が投稿していて、私が作った「もの」ではあるんだけれど、それらはどちらかというと、意識しないまま抜け落ちていく髪の毛に似ている。私の手から「投稿」された瞬間に、私から剥がれ落ちて無機質なものになる。

けれど、noteは違う。noteの記事は、自分の分身のようなものだ。私自身をちょっと切り離して、私のかたちにして気持ちをのせたリトルたなべ、みたいな感じ。だからこそ、現実の友達よりも私のことを知られているような気がする。

身近な小さなことも、きらきらした出来事も、自慢したいことも、制限なく自由に作れる。今はこうしてテキストを使っているけど、別に方法も限定されていないから、文字でも、写真でも、動画でも、音声でも、イラストでもいい。

それに、毎日投稿はnoteでしかしていない。毎日毎日、私の小さな分身を生み出している。きらきらしてるときもあれば、ちょっと落ち込むこともあるし、ふざけているときもある。Twitterのように周りを気にしている私じゃなない。Instagramのように背伸びした私じゃない。どこまでも等身大の私が、毎日毎日生み出されている。

だから、もし、現実の友達に私のnoteを読まれたら、私は恥ずかしくてどうにかなっちゃうかもしれない。先入観のないまま、私の作る分身たちを純粋に見てくれるnoteという環境が私は好きだ。とても居心地がよくて好きだ。

ぺったんこの靴のようで、毎日歩きやすいなあ、と思う。

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。