最初はみんな、小さき同じ者たち
人の違いは、あらゆるところに出る。考え方にも出るし、価値観、行動、休みの日の過ごし方、仕事の進め方などなど。そして、実はもっと些細なところにだって出る。笑い声、本人も気がついていない癖、無言のときの表情、色の塗り方、文字の書き方、ペンの握り方、頷き方などなど。人生のどの段階で “ その人 ” らしさを決定づけられたのかわからないぐらいに、気がついたときにはその人らしさのある状態で私たちは出会っている。
それの、なんと不思議なことか。
最初はみんな、意思も、知恵も、「自分」というものさえなかった小さき同じ者たちがそれぞれの場所で、それぞれの両親のもとで、それぞれの環境で、なんらかを摂取して 、らしさを作っていく。違うことが当たり前で、違うことが当然なのだと。
そう思うと、もしかしたら人間関係は、人と繋がるということは、その違いがあることを認識し続けて、認め続けて、そして、「分かり合えない」ことを受け入れ続けるということなのかもしれないと思ったり。
私とあなたは別物で、別人であるということ。
それは決して自分の思っていることや気持ちを正確にわかってくれる人はこの世にーそれは両親だとてーいないということを意味する。誰かと出会うたび、そんな絶望を私たちはこれから先もずっと認識し続けていくことになる。
しかし一方で、それは願いの始まりでもある。
「分かり合えたらいいな」「お互いの違いを楽しめたらいいな」という小さな願い。その願いを叶えるために言葉を得て、話をして、心を開けて、握手を時に抱擁を交わす。私とあなたは別物であるということ、だけど、「分かり合いたい」ということ。
そんなことを認識できるようになったのは、いつからなんだろうか? と今日ふと思ったりした。私はいつから「あなたと私」をわかるようになって、いつから「分かりたい」と願いを口に出せるようになったのだろうか。長すぎる人生の中で、らしさを知りたいと思えるのは、どうしてなんだろうか。