見出し画像

すべて忘れたのに、すべてできている

2本の足で立った日のことを覚えていないように、初めて口にした食べ物が何かを覚えていないように、初めて紐にビーズを通せたあの日のことを覚えていないように、初めて私に「悔しい」という気持ちが生まれたときの出来事を覚えていないように、なぜか私はそのすべてを今となっては当たり前のようにできている。

その不思議さについて、先日、友達と話していた。彼女には、もうすぐ子どもが生まれる。小さくはないお腹の中で、自分とは別の命を持っている。身体の中に2つ命があって、だけどそれは1つの命として彼女の身体の中にあって。卵のような受精卵が徐々に人の形を成していく過程を、彼女はどんな思いで外の世界から見つめていたのだろうか。

「どうやって、“恥ずかしい” ってことを教えたらいいんだろう?」と彼女は言った。

「私は気がついたら、”恥ずかしい” という気持ちを持っていて、それ以外も ”悔しい” とか、”やるせない” とか、”頑張りたい” って気持ちを知っているけれど、それを私はこの子にどうやって伝えたらいいんだろう?」

もし、「どうやって頑張ったらいいの?」と言われたとき、なんて答えるのが正解か、私もわからなかった。頑張るための具体的な方法は教えられる。集中しやすい環境を作るとか、自分のサボり癖を知るとか、良く眠り、良く食べるとか。だけど ”頑張ること” 、そのものはどうやって教えたらいいんだろう。私は、どうやって体得したんだろう。

よく、親の姿を見て子どもは育つ、と言うけれど、それは外面の行動の話であって、内面はどうやって伝えるのだろうか。言語習得具合も、腕の可動域も、身長も、歩き方すらも小さな子に何かを伝える、教えることの果てしなさを感じて頭がクラクラした。

できた瞬間が、気持ちが生まれた瞬間があったはずなのに、それはとうの彼方においてきてしまった。それなのに、今私はそれらすべてをできている。

なんの根拠もないし、慰めにもならないのに、無責任に「きっと大丈夫だよ」としか言えなかった。

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。