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母を看取るまでの時間(2/2)

土曜日の夜、何日も連日病室に泊まり込んだ父を無理やり家に帰した。 お風呂にも入れさせてあげたかったし、ちゃんとした布団で寝ても欲しかった。 彼ももう立派な老人な訳だし。

私も危篤の知らせをうけてから仕事を片付けたり、子供たちのお泊まりの準備をしたりともう2−3日ろくに寝ていなかった。 体力には自信がある方なのだけれど、頭は割れそうに痛かったし、立ちくらみも激しくなって来た。 

「お母さん、ごめんね。 今夜はすぐそばでちょっと横にならせてね。」

目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。 でも必ず1時間に一度のペースで目がさめる。 暗闇の中、母の呼吸をチェックする。 心拍数を見る。 起き上がってずれた酸素マスクを治すついでに乾ききった口をスポンジで湿らせる。 椅子に座って話しかける。 手を繋ぐ、泣く、ベッドサイドでうつらうつらしてしまう。 母はまだ生きていることを確認して安心してまた横になる。

を一人、ひたすら繰り返した。

今思えば、それはとてつもなく美しい時間だった。 私だってもう二日以上お風呂にも入っていないし、同じ服来てるし、ろくに食べてないし、、、 だけど、母とあの密度の高い時間は今思えば本当に尊い時間だった。

暗い病室で確信していた。お母さんは私のために生きていてくれている。

これ以上深い愛があるであろうか? 私を悲しませないために、あんなにひどいボロボロの体になってしまったのに母は、必死に呼吸をし、いつも心配していた末っ子の私のために1分1秒でも長く生きようとしていてくれいた。

でも、母の容態はこの夜の間に徐々に下降していった。 起きて母の容態をチェックするたびに呼吸が浅くなり、喘ぐように息をする母。 血圧を測るたびに顔をしかめていたのに、もうそんな風に表情を変える力も残っていないようだった。

母の心拍数は200を超え始め、呼吸は大きく乱れ始めた。

看護師は「家族の方達はなるべく午前中に来た方がいいかも。」と言った。

父も、兄夫婦と私の甥っ子たちもすっ飛んで病室に駆けつけた。 そして何時間もドキドキするような時間を病室で送った。

夏休みに私が娘たちと日本に帰省していた時母はすでに入院していた。 その時に他の病室で危篤状態にあった患者さんを見て言った母の言葉が頭の中を駆け巡る。 「私もあんな風に死ぬのかしら? あんな風には絶対に死にたくない。」

でも、母はあの時の患者さんと同じ顔ような死相をして、同じような喘ぐ呼吸をして、同じように家族に囲まれて最期を迎えつつあった。

(こんな風にさせちゃって、ごめんね、ごめんね、お母さん、、、)

どこまで流れるのだろうか?と思うくらいに涙がとめどなく流れた。

そして日曜日の正午を過ぎた頃、もう何日も水を飲んでいない母の目から一筋の涙がこぼれた。

「お母さんが泣いてる!」

そう言った私の声を聞いて、病室でがっくりと肩を落として座っていた家族達が母のベッドの周りに駆け寄った。

母は残された力を振り絞って目を開けて、長い長い間父の目を見つめた。 その目は悔しそうで母の死ぬ間際でも自己中心的な言動しかとれなかった父を諌めているように私には見えた。 そして、「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」と可愛がっていた兄を愛おしそうに見つめた、初孫の甥っ子、末っ子の甥っ子と順々に顔を見つめた。

そして静かに目を閉じた。 

そして、最期の息をついた。

母の横顔を見ていた私には、その最期の息と一緒に母の魂が抜けていったように思えた。 その一瞬は悲し過ぎ、また尊く美しかった。 人の生命の神秘を見たように思えた。

もう、この痛々しいボロボロの体に母の魂はない。 

身も心も引き裂かれるような悲しみで押しつぶされそうだったのに、母の長すぎる苦しみが終わったことに安堵もした。

この文章を書いている時点で、母は最後に私の顔を見たかどうかははっきりと覚えていない。 たとえ、私のことを母が見なかったとしても私は構わない。 私は最期の1日半を母と過ごすことができたから。

あぁ、母に会いたい。 これを書き上げたのは母の4回目の月命日。 未だ、どうして母は死んでしまったのだろうか?と思っている。

母が死んだ理由はよくわかっているのに、でもどうして母はしんでしまったのだろうか?と思う。




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