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【掌編】“優”うつ

 「最近、『ゆううつ』なんです」
 患者の一言に、医師は顔をあげた。問診票には、二十八歳の男性と書かれている。
 職業は会社員だが、本人の話を聞いていると、日本人なら誰もが知る大企業に勤め、しかもすでに部長にまで昇進していることがわかった。
 若々しく、身体もがっしりとしていて、健康そのものに見える。病気の方が逃げだしてしまいそうだ。
 そんな彼が、「ゆううつだ」と言って、自分を……心療内科の医師を頼ってきた。
「夜はきちんと眠れていますか?」
「いえ……なかなか寝られなかったり、寝た気がしない日が多いように感じます。気がつくと朝、ですね」
 なるほど、と相槌を打ちながらキーボードでカルテに記録していく。
「何か気がかりなことがあるのですか?」
「仕事が多くて……面倒、といいますか、処理に困る仕事ばかりがまわってくるんです]
「仕事のことが頭からはなれない、と」
「はい……もともと、向いていない仕事のように思うんです。本当は研究をやりたいのに、営業のようなこともさせられて……」大きな体を小さくし、うつむく。「部長という立場上仕方がないのですが、部下の失敗のために動かなければいけないことも多々あります。誰でも失敗はありますし、くり返したりしなければいいと思ってはいるのですが……人を……その、叱責したり、注意したりするのは、苦手、なん、です」
 男性の声が少しずつつまってくる。間もあいてきた。
 自分には向いていない仕事や職務を押しつけられ、嫌とはいえず、苦しんでいるようだ。
 医師は思いきって切りだした。「休職してみてはいかがでしょうか」
「やめるんですか?」男性は目を見開いた。
「いえ、一時的に仕事をはなれるだけです。それでよくなることもあるんですよ。診断書も書きますので、仕事内容のセーブや、部署を変えてもらえるかもしれません」
 初めての診察で、休職を進めることはまずない。だが、男性の口ぶりから、今の仕事が彼にまったく合っていないことがわかった。それに、眠れないこと、表情が優れないこと、言葉が途切れ途切れで疲れきっていることなどからも、早急に手を打った方がいいと医師は判断した。
「診断書はすぐに書きます。あとは、夜きちんと眠れるような薬を……」
「い、いや、ちょっと待ってください」
 男性はあわててかぶりを振った。
「私はこれでも部長です。部下も抱えています。それなのに、私がいなくなったらみんなが困るじゃないですか。私がしなければならない仕事もあります。それを放置して休むなんてできません」
 それまでの力のなさが嘘のように、男性は力強い声でまくしたてた。生来の真面目さ、責任感の強さが、男性からにじみでている。
 大きな会社なのだから、たとえ彼がいなくても代わりの者が仕事をしてくれるだろうし、異動もできるにちがいない。
 おそらく、彼は自分が「優秀」であると自負している。若くして部長となり、部下を持った。重要な仕事を任せられ、それを誇りに思っている。自分の役割に満足しているのだ。
 「休職」「異動」などという選択は、彼のプライドを傷つけることになる。だから、強く否定しているのだ。
 患者に拒否されては、医師にできることはない。ひとまず薬を処方し、様子を見ることにした。

 半月後。
 男性が自宅で首を吊ったという連絡が、男性の両親から医師のもとに入った。
 医師は、自分の判断を悔いた。男性は医師が思っている以上に追いつめられていたのだ。そのことに気がつかなかったのは、自分のミスだ。
 医師が法的に罪に問われることはないし責任もないが、男性の遺族から連絡をもらったことから、医師は葬儀に参列した。
 葬儀場で、医師は男性の同僚の話を小耳にはさんだ。
「昇進はいいけど、若すぎる。部長になるには経験がなさすぎたんだ」
「でかいばかりで、ロクな奴がいない会社じゃなあ」
「会社の規模に限らず、どこも人手不足か。アイツ、仕事できたからなあ。会社も重宝してただろうに」
「じゃあもう少し大切にしろよな。このままじゃあ、みんな使いつぶされるぞ」
 彼はやはり、「優秀」だったんだな。男性の遺影を見ながら、医師は思った。
 優秀だから、要職についた。優秀だから、重要な仕事を任せられた。優秀だから、これぐらいの仕事はできるだろうと業務過多に追いこまれた。
 優秀だから……使いつぶされた。
 いつからこんなことが日常的に起こるようになってしまったのだろう。考えても仕方のないことだが、考えずにはいられなかった。
 医師はため息をつき、葬儀場をあとにした。
 スマートフォンが鳴る。看護師からだった。
『今、どちらですか? 午後の診察まで時間はありますが、患者さんが大勢来られてますので、早く戻ってきてください』
「ああ、わかった。どれぐらい来てる?」
『今のところ、五十人ぐらいです。でも予約の方が百人ぐらいいるので……今日も、いつまでかかるか』
 スマートフォンの向こうから、小さなため息が聞こえてきた。
 今日も診察時間を前倒しにした方がよさそうだ。医師は顔を軽く叩き、気合いを入れた。そうだ、自分にもやらなければならないことがある。代わりはいないのだ。
 歩きだそうとしたとき、一瞬、患者が言っていたことを思いだした。
 ゆううつなんです。
 医師はかぶりを振り、その言葉を追い払った。自分は医者だ。自分の健康状態などわかっている。大丈夫だ。
 その両目には、くまができていた。

(了)

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