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【短編】No

 二宮大輔が日が暮れる前にマンションへ帰ってくると、妻の二宮美沙はまだ帰っていなかった。
 カーテンを開けると、夕日がさしこんできた。それほど広くはない、しかし夫婦二人で暮らすには十分な広さのあるマンションだ。
 ──美沙さんは今日も残業か。
 スマートフォンを取りだし、連絡がないか確認する。時間は午後六時を少しすぎているが、連絡はない。おそらく忙殺されているのだろう。連絡がないならなくても構わないと大輔は思っていた。
 連絡がおくれるのはいつものことだし、それをとがめたこともあった。しかし。
 ──僕だって、人のことはとやかく言えないしな。
 ひとり苦笑しながら、スーツを脱いでハンガーにかけた。部屋着に着がえてから、軽く首をまわした。一日も終わりに近づくと、さすがに疲れてくる。それでも、以前よりははるかにましだ。
 台所へ行き、米を研ぐ。二・五合の米を炊飯器にセットする。米が水を吸っているあいだに、おかずの準備をはじめる。
 冷蔵庫を開けると、人参に生しいたけ、ピーマンがあった。床下収納をのぞき、たまねぎを取りだす。
 今日はこれで八宝菜でも作ることにした。といっても、大輔が作る八宝菜は「なんちゃって八宝菜」とでも呼ぶべき代物である。とろみのついた、ただの野菜炒めを大輔はそう呼んでいる。
 野菜を切っているあいだに冷凍庫の豚肉をレンジで解凍する。解凍が終わったら油をひいたフライパンに豚肉を入れ、炒める。ある程度火が通ったら、野菜もフライパンに投入した。
 顆粒の出汁、しょうゆ、塩などで味つけをしていると、スマートフォンが鳴った。火を小さくしてスマートフォンを見ると、
『ごめん! おそくなる! ごはん先に食べてて!』
というメッセージに、手を合わせて謝っている猫のイラストが添えてあった。
 大輔は苦笑し、『わかった』と返事を打ち、ヨシ、という指さし確認をしている猫のスタンプをつけて返信した。
 そうこうしているうちに、「なんちゃって八宝菜」はできあがった。なんちゃって、と言いつつ、彩り豊かで、栄養のバランスも考えてある。今日はこれでいいかと思いかけたが、ふと、一品ではさびしいと思い、みそ汁を作ることにした。みそ汁なら十分もかからない。
 再び冷蔵庫を開けると、先日買った豆腐があった。豆腐は足が早いと聞いたことがあるが、大丈夫だろうか。消費期限には余裕があるので大丈夫だろうと判断したが、念のためにおいをかいでから使うことにした。
 ごはんが炊きあがるのを待っているあいだ、大輔は掃除をすることにした。といっても、料理を作ったあとに掃除機をかけるはずもなく、フローリングモップでほこりを軽く取り除くだけだった。
 部屋はそれほど汚れてはいなかった。少し灰色がかかった程度のモップを見て、昔はこんなことありえなかったなあと、大輔は思った。
 炊飯器から軽快な音が鳴った。ごはんが炊きあがったようだ。
 美沙のぶんを残して八宝菜を皿に移し、ごはんをよそう。みそ汁を椀に注いだところで、栄養のバランスを考えて納豆も出すことにした。手軽にタンパク質が取れる納豆は、こういうとき重宝する。
 時間は午後七時半になっていた。TVをつけると、いつものバラエティー番組をやっていた。大輔は居間のテーブルの前に正座し、いただきます、と手を合わせた。
 一口食べて、む、とうなった。
 いつもよりおいしい。作りなれた料理ではあるが、今日は少し、しょうゆを多めに入れてみた。お手軽なインスタントの出汁も、いつもとちがうものを入れた。
 思わず顔がほころぶ。ここ数年は週に四回程度の割合で夕食を作っている。当然、試行錯誤の連続だ。料理の本を開いたり、実家の母に電話をして訊いてみたりと、自分なりに努力を重ねてきた。
 母は正月の雑煮のような特別な料理を除き、インスタントの出汁を使う。だが、インスタントとあなどってはいけない。量を調節すれば、絶妙な味わいを出すことができる。
 絶妙な味わい。大輔はそれを大切にしてきた。
 「男の手料理」という言葉がある。男らしい豪快な料理、細かなことを気にしない味を指すのに使われることが多い。
 しかし、大輔は自ら台所に立つようになって、「男の手料理」が「手抜きのいいわけ」であることを痛感した。要は「悪い意味でのいい加減」なのだ。決してほめられたものではない。
 男であることをいいわけにしたくない。料理を本格的にはじめて、大輔はそう思うようになった。
 ニ十分ほどで八宝菜をたいらげたころ、スマートフォンが鳴った。
『もうすぐ家につくから』
 美沙からだった。大輔は八宝菜が残っているフライパンを火にかけ、テーブルに美沙の箸やコップを並べた。食事を終えたばかりなので一息つきたかったが、そうも言っていられない。
「ただいまー」
 美沙の元気な声に、少し胸をなでおろす。時間はとうに午後八時をすぎていたが、美沙の声は明るかった。
 居間に入ると、美沙は「いいにおいー」と言いながら、鞄を部屋の隅に置いた。大輔も美沙ももうすぐ四十歳になるが、大輔よりも体形維持に余念のない美沙は、出会ったときのほっそりとした身体のままだ。それもたんにやせているのではない。筋肉でひきしまっているのだ。
「なになに、八宝菜?」台所にやってきて、美沙は嬉しそうに言った。まるで新婚のころのような反応だ。
「残業のあとの割には、ずいぶん元気そうだね」
 皿に八宝菜をすくいながら、大輔は笑った。なにげない一言だったが、美沙は口をとがらせた。
「これでも疲れてますー。ちゃんと働いてないみたいなこと言わないで」
「はは、ごめんごめん」大輔は笑った。
 子供っぽいとも言える美沙の口調。こういう話し方のとき、美沙は甘えているのだと大輔はわかっていた。
 美沙が手を洗っているうちに、食事の用意を終わらせた。ついでに風呂の準備もしておく。
 美沙が八宝菜を食べているあいだ、大輔はずっと向かいに座っていた。
「どう?」大輔はたずねた。
 うーん、と美沙はうなり、「おいしいけど、ちょっとしょうゆききすぎてない? 前の方がよかったかな」
 ありゃ、と大輔は苦笑した。「今回は満足してもらえると思ったんだけどなあ」
「満足してるよ。凄くおいしい」美沙は言った。その言葉が嘘ではないことは、箸の動きを見ればわかった。
 美沙は大輔よりも料理が上手い。一人暮らしの期間が長かったかららしい。それに比べ、いつまで経っても料理が上手くならないことに落ちこんだときもあった。
 しかし、美沙が大輔の料理をとがめることはない。連絡がおそかったり、時間に少しルーズな美沙を、大輔がとがめないのと同じだった。
 お互い様、なのだ。
「今日は忙しかったみたいだね」
「ちょっと、部下がへましちゃってね。その尻ぬぐい」美沙は食べながら言った。
「美沙さんの部下がうらやましいな。頼りになる上司がいて」
「やめてよ。好きで部下を持ったわけじゃないんだし。だいたい、給料もろくにあがらないし、部長の嫌味は聞かされるし」
「嫌味って、いつもの?」
「そう」美沙は箸を置いて苦笑いした。
 年配の男が、年下の既婚女性に言うことなど決まっている。
 子供はまだか。
 そんな言葉を、美沙は嫌と言うほど聞かされてきた。まるで、さっさと子供を作って退職しろと言わんばかりだ。
 美沙の上司が、美沙のことを快く思っていないことは知っていた。女のくせに出世するなんて生意気だとでも思っているのか、それとも、いずれ自分より上に行くのではないかと戦々恐々としているのか。人の心のうちなどわからないが、美沙はたびたび、男上司から嫌がらせを受けていた。
 一度、「はっきり言ってはどうか」と美沙に言ったことはあった。しかし、「別の嫌がらせが増えるだけ」と美沙は応じなかった。さもありなん、と大輔は思った。
 美沙は平気な顔をしているが、いらだちはあるだろう。しかし、一時のように思いつめなくなったのはいいことだ。それでも、もし美沙の上司がおかしなことを言うようなら、夫として動くつもりでいた。
「大輔は?」八宝菜をたいらげ、お茶を飲んでひと息ついた美沙は、大輔にたずねた。「またいつもの?」
「そう、いつもの──」
「男のくせに」
 大輔と美沙の声が重なる。一瞬、間を置いて、二人は大笑いした。
「セクハラだね」
「セクハラだ」
 大輔の上司──橋谷喜久子課長は、美沙の上司とは異なり、女だ。大輔に限らず、男の部下が不甲斐ない……彼女の目から見て、だが……とき、必ず言うのが「男のくせに」という決まり文句だ。
「残業せずに帰ったから?」
「まったくしてないわけじゃないよ」
「でも、足りないんでしょ。課長さんはもっとやれって言ってるんじゃない?」
「そうそう。残業代出せば、いくらでも残業させていいと思ってる」
「『プロ』ならやれって?」美沙が笑いながら言った。
「そ、プロ意識を持てってね。それには同意するけど、プロ意識と残業はちがうだろ。時間内にやるべきことをきちんとやるのがプロだと思うけどな」
「大輔みたいな部下を持つと課長さんも大変だ」美沙は言ったが、本心ではないことは大輔もわかっていた。橋谷課長への嫌味なのだ。
「『男なら働いてなんぼだ』ってよく言ってる。何でそこだけ関西弁なんだろうな」
「プロらしくみっちり働くから、基本給上げろって話よね。残業代なんか、出て当たり前なんだから」
 むしろ出ない職場の方がおかしい。「プロ意識とかプロであることを求める割には、プロに支払うだけのものは支払ってないんだよな」
「矛盾」そう言いながら、美沙はごちそうさま、と手を合わせた。
 大輔が皿をさげて台所へ立つと、「洗い物は私がするから」と美沙が言った。
「食べたばっかりじゃないか。いいから休んでなよ」
「大輔こそ料理作って洗い物までなんて大変でしょ? それぐらい私がやるから」
 でも、と言いかけたとき、軽快な機械音が鳴った。風呂がわいたのだ。
「お風呂入ってきなよ。あとはやっとくから」
「わかった。じゃあ美沙さん、頼むよ」
 大輔は素直に引きさがり、風呂場へ向かった。
 熱めの湯舟に、そっと浸かる。疲れた身体にしみる。あー、と深いため息が出た。ため息をすると幸せが逃げるというが、今のは幸せのため息だ。
 ──昔は、本当に幸せが逃げてたもんなあ。
 子供のころ見たアニメで、「風呂は命の洗濯」という言葉をおぼえたことを思いだす。だが主人公は、風呂に入ると嫌なことを思いだすと言っていた。
 台所から鼻歌が聞こえる。美沙が機嫌よく洗い物を片づけている。少し前までは考えられない状況だった。
 今は幸せだと思う。でも、風呂に入ると嫌なことを思いだすというのは事実だ。
 大輔は湯に身をゆだね、目を閉じた。

 疲れた身体を引きずり、大輔はマンションのドアを開いた。
 ドアの鍵はかかっていたが、部屋の明かりはついていた。電気を消し忘れたのかと思ったが、美沙の靴があった。帰ってるなら、おかえりぐらい言えよ、と大輔は露骨に舌打ちした。
 居間の明かりはついていたが、誰もいなかった。テーブルには、大きな茶封筒が置いてある。手に取って見ると病院からのもので、封は切ってあった。
 書類を取りだし、ざっと目を通す。大輔の顔色が変わった。
「美沙」寝室に向かって声をかける。そこに彼女はいると大輔は踏んでいた。返事はなかったが、何かが動く物音がした。「これは、なんだ」美沙が出てくるのを待たず、たたみかける。
 引き戸が開き、美沙が姿を現した。短く切った髪はぼさぼさで、通勤用のスーツも着たままだ。敷きっぱなしの布団に倒れこんだのか、しわだらけだ。よく見ると、まぶたが腫れている。
「これ、勝手に開けたのか」大輔は問いつめた。
 うん、と聞こえるか聞こえないかの小声で、美沙はこたえた。「どうしても、早く知りたくて」
「いっしょに開けようって言ったじゃないか」大輔の声に怒りがにじむ。
 大輔が持っている封筒は、病院からのものだった。本来なら医師から直接話を聞く類のものだったが、大輔と美沙の休みがあわず、郵送での検査結果報告を希望したのだ。
 こまかなデータについてはわからないが、一読しただけでわかったことがあった。
 美沙の「不妊」の原因は、大輔にもあるということだった。
 結婚して四年になるが、子供に恵まれなかった。お互い三十をこえての結婚だったこともあり、妊娠しないことに不安をおぼえたため、検査を受けた。
 はじめにわかったのは、美沙自身が妊娠しにくい体質だったということだ。たとえ治療をしたとしても、妊娠の確率は一桁にとどまるだろう、というのが医師の見解だった。
 そのことを聞かされたときの美沙の落ちこみ方は、尋常ではなかった。ふさぎこみ、食事もまともに喉を通らず、満足な睡眠もとれない状態が何日も続いた。
 似ている、と大輔は思った。今の美沙はあのときと同じぐらい、弱っている。
 優しい言葉をかけるべきだった。だが、大輔はまったくちがう言葉をぶつけてしまった。
「こたえろよ。早く知りたいって気持ちは、俺も同じだったんだ。なのに──」
「大輔はかばってくれなかったじゃない!」叫ぶように美沙は言った。「私が、お義母さんに責められてるとき、何も言ってくれなかったじゃない!」
 突然の感情の爆発に、大輔は声が出なかった。
 美沙は結果を知って、安心したかったのだ。子供ができないのは自分のせいだけではない。夫に……大輔にも責任があるのだと。その事実を知らなければ、壊れてしまう。それほど、美沙は追いつめられていた。
 美沙の気持ちはわかる。大輔は確かに、美沙を擁護しなかった。擁護しようがなかったからだ。
 だから、自分も検査を受けた。本当に美沙の体質だけが原因なのか? 自分にも責任があるのではないか? その確証がほしかったからだ。
 ──ちがう。
 大輔はかぶりを振った。そんな優しさから、検査を受けたのではない。ほしかったのは、自分には何の落ち度もないと、美沙を擁護しなかったのは正しい判断だったという確証だ。
 そしてそんな都合のいい確証は、得られなかった。目の前にあるのは、これは夫婦の問題であるという厳然たる事実だけだった。
「ねえ、どんな気持ち?」美沙の口が曲がる。「自分にも責任があったってわかって、どんな気持ち? 子供もろくに作れない不能だったわかって、どんな気持ち?」
 かっと頭に血がのぼった。握りしめた右手の中で、書類が歪んだ。もし、手に何も持っていなかったら、美沙を殴りつけていたかもしれない。
 大輔は書類を力任せに引き裂いた。肩で息をし、沸騰しそうな頭をどうにかして落ちつけようとする。
「寝ろよ」大輔は言った。「とっとと寝ちまえよ!」吐き捨て、大輔は背を向けた。
 背後で引き戸があらあらしく閉まった。
 洗面所へ行き、水で顔を洗う。冷たい水がしみる。鏡に映った自分の顔は、仕事の疲れと怒りが重なり、赤黒くなっているように見えた。目のまわりにはくまがでてきていた。
 ──ひどいことを、言った。
 今日ほど、自分のことが嫌になった日はなかった。美沙を擁護しなかった自分も最低なら、保身のために検査を受けた自分に吐き気がするし、責められて当然なのに反対に怒りをぶつけた自分にも嫌気がさす。美沙が落ちこんでいたのは、妊娠が絶望的だと知ったからだ。それはわかっている。わかっているのに──
 なぜ、自分は美沙に優しくできないのか。
 ──好きなのに。
 美沙のことは、今でも好きだ。その気持ちだけは変わらない。なのに、何もかもが空回りしている。
 謝るべきだったのに。それ以外、とるべき行動はなかったはずだ。美沙の体質がわかったとき、もっと寄り添って、優しい言葉をかけるべきだった。大輔の母親に責められたとき、守らなければならなかったのに。
 大輔はおぼつかない足どりで台所に戻り、床下収納からカップ麺を取りだした。帰りに夕食を買ってくる気力もないほど、大輔は疲れはてていた。自炊をしようにも、大輔は料理などできず、米を炊く気すら起こらなかった。
 湯をわかしながら、ふと、美沙は何かを食べたのだろうかと思った。流し台は乾いていた。

 翌日、大輔は美沙が起きるよりも早く、家を出た。あんな言い争いをしたあとで、美沙とどう接すればいいかわからなかった。
 身体は疲れていたが、無理やり起きて会社近くのマクドナルドで時間をつぶすことにした。安いセットを頼み、朝食の代わりにする。
 仕事がはじまると、時間はあっという間にすぎていった。
「じゃあ、先に帰るから」橋谷喜久子課長は、定時になるとさっさと席を立った。
「お疲れ様です」
 努めて疲れを見せないようにあいさつをしたつもりだったが、橋谷課長は気に食わなかったらしい。「陰気な男」とつぶやき、事務所を出ていった。
 事務所に残っているのは大輔だけであったが、工場は動いていた。プラスチックの射出成形工場であるため、週末を除き、二十四時間稼働している。もうすぐ夜勤担当者が来るはずだ。大輔は事務および営業補佐の仕事をしているため、夜勤業務はない。
 大輔は見積書や新入社員の指導要項の作成などで、毎日二~三時間は残業していた。たまに早く帰れそうな日でも、橋谷課長は残業時間にする仕事をどっさりと持ちこんでくる。小さな会社であるため、大輔に集中している仕事量は相当なものであった。
 法令違反ではない。ないが、残業代さえ支払えば、社員にどれだけ残業を強いてもいいと思っている。姑息にも、世間一般で言われている過労死レベルをぎりぎりこえない時間で、だ。
 以前、残業を切りあげて帰ったことがあったが、翌日の橋谷課長の怒りようは異常だった。
「残業を切りあげるなんて、プロ意識が足りない! どうせ帰ったって寝るだけでしょ。じゃあ仕事をしなさい。男は働いて、稼いで、なんぼでしょ!?」
 残業をしてまでやらなければならない仕事がなかったと抗弁したが、橋谷課長は聞き入れなかった。仕事を探して、残業をしてでも働け、というのが橋谷課長の言いぶんだった。
 おかしな話である。普通、会社は無駄を嫌う。必要のない残業をさせて、喜んで残業代を支払うなど馬鹿げている。
 だが、社長をふくむ上司は、「働くだけ働くことを美徳」としている。働いて、働いて、働きぬけというのだ。そのぶんの残業代は支払う、と。
 おかげで経済的にはそこそこ余裕があったが、大輔はもっと時間的な余裕がほしいと思っていた。毎日疲れきって帰り、美沙とまともに話もできないような生活は送りたくなかった。
 大輔と同じことを考えている社員は他にも二人いたが、二人とも辞めてしまった。そのぶんの仕事が大輔にまわってきていた。最近では残業を切りあげること自体、不可能になりつつある。
 疲れているのは、大輔だけではなかった。
 美沙もまた、毎日疲れた様子で帰ってくる。家で顔を見ても、「おかえり」と言えればいい方で、お互いに無言で布団に入ってしまうことが多かった。時間があわないため夕食も別々で、いっしょに食べた記憶は遠いものとなっていた。美沙が毎日何を食べているのかすら、大輔は知らなかった。
 検査結果のことで言い争いになったあと、美沙との距離はさらに開いてしまった。
 休日ぐらいは話しをしたいと思っていたが、怒鳴りつけてしまったこともあり、気まずくてそれすらできなくなっていた。美沙も、怒っている様子はなかったが、大輔をさけるようになった。
 美沙が買い物に出かけたあと、大輔はひとり、コーヒーをいれて居間でテレビを見ようと思った。なにげなく、畳に手をついて座ろうとしたとき、ざらっとした感触にぞっとした。
 両手を畳の上に走らせると、砂でもまいたかのように、こまかな粒が畳のあちこちにばら撒かれていた。目をこらしてよく見ると、髪の毛やスナック菓子の食べかす、ふけ、ほこりなどだった。
 大輔は台所に洗面所、浴槽、トイレ、玄関を見てまわった。どこもかしこも汚れたり散らかったりしていた。
 ──前に掃除をしたのは、いつだっけ?
 風呂だけは洗っていたが、それ以外のところを掃除したり、片づけたりした記憶がない。忙しさにかまけて、部屋の掃除が完全におろそかになっていた。
 タンスを開け、自分のシャツや下着を確認する。洗濯はしてあったが、雑な畳み方をしているため、しわだらけだった。仕事に関係のないところは、手抜きだらけだった。
 立ちあがり、部屋を見わたす。今まで何とも思わなかった部屋が、急にごみごみした汚い空間に見えてきた。実際に汚いのだが、その自覚がなかったことに慄然とした。
 大輔の母は専業主婦だった。毎日掃除をし、食事を作り、家事全般を引き受けてくれた。きれいな部屋においしい食事、清潔に保たれた衣類は、すべて母があってのことだった。
 誰もやらなければ、人間の生活はここまで乱れるのか。
 大輔は深いため息をついた。
 ──こんな生活は、もう嫌だ。
 心の中でつぶやく。口にしたところで、大輔にはどうすることもできない現実だった。

「二宮さん、お電話です」
 同僚に言われ、大輔は受話器を取った。相手は、美沙が勤める会社の社員だった。
『二宮大輔さんですか?』
「はい」一瞬、嫌な予感が頭をよぎった。
『二宮美沙さんが倒れました』
 思わず立ちあがった。その勢いで椅子が倒れ、橋谷課長をふくむ社員たちの視線が一気に大輔に集まった。
「美沙が、ここの電話を教えたのですか? スマホではなく?」
『はい。会社の方に連絡をしてほしいと』社員が搬送先の病院の名前を教えてくれた。大輔も知っているところだった。
「……すぐにうかがいます」
 受話器を置くと、大輔はすぐに橋谷課長に事情を説明した。橋谷課長は黙って聞いていたが、眉間の縦じわがだんだん深くなっていった。
「今すぐ行かないといけないの?」
「医師がそう言っていました。すぐに来てほしいと」大輔は嘘をついた。
 橋谷課長はねめつけるように大輔を見つめ、「わかった」と無機質な声でこたえた。
 大輔はすぐに会社を飛びだした。大通りで運よくタクシーを拾えたため、病院の名前を告げて直行した。
 病院へつくと、美沙はベッドに横になっていた。つきそっていた美沙の同僚は、大輔にあいさつをすると、お大事に、と言って帰っていった。
 椅子を持ってきて、美沙のそばに座る。左腕には点滴のチューブがついていた。
 美沙の顔はひどくやつれていた。大輔の知っている美沙は、もっとふっくらとした顔をしていたはずだ。目の下にくまもできている。こんなになっていることを知っていたなら、すぐに病院へ行くようすすめたのに。
 ──まともに見てなかったんだな、美沙の顔。
 自分の薄情さに嫌気がさす。何が「今でも好き」だ。本当に好きなら、もっと相手を見て、気を配ってしかるべきだ。結婚までしておいて、自分は何をしていたのか。
 若い医師が病室に入ってきた。大輔が頭をさげて礼を言うと、
「奥様は軽い栄養失調の状態でした。それで貧血を起こし、倒れたのだと思われます」
「栄養失調って、美沙は毎日食事を」とっている、と言いかけて言葉をのみこんだ。美沙が食事をとっているところを見たおぼえがない。休日でも、いっしょに食事をとることがなかった。
「それと、奥様は少し精神的に参っているようです。今は安定して眠っていますが、看護師の話では、点滴の用意をしているあいだずっと泣いていたそうです」
 大輔は奥歯をかんだ。その理由に心当たりがありすぎて、何もこたえられなかった。
 うつむく大輔に、医師は「失礼ですが」と言った。「二宮さんも、少しお疲れなのではありませんか。顔色が優れないようですが」
「いえ、大丈夫です」大輔は努めて平静を装った。
 医師は、美沙にはしばらく入院が必要だと言った。ただの栄養失調なのか、経過を観察する必要があるらしい。
 美沙のそばに座り、大輔は彼女の顔をじっと見つめた。
 ──本当に何やってるんだ、俺。
 美沙がこんなに弱っているのに気づきもしないなんて、どうかしている。
 窓の外を見ると、すでに日は暮れていた。美沙の胸は静かに上下している。
 今日はこのままゆっくり眠っていてほしい。顔を合わせれば、なぜ具合が悪いことを隠していたのかと、問いつめてしまうかもしれない。
 立ちあがろうとしたとき、大輔、とか細い声で呼ばれた。はっとなり、美沙の顔を見つめる。
 美沙は弱々しい笑みを浮かべ、大輔を見ていた。「ごめんなさい、迷惑をかけて」
「何言ってるんだ」大輔はあわてて椅子に腰をおろし、美沙の手を握った。「俺の方こそごめん。美沙の具合が悪かったことに全然気づかなくて」
「いいの。自分の体調管理ができてなかっただけだから」
「ひょっとして、食事、とってなかったのか?」
「あんまり……どうしても喉を通らなくて」
 大輔はやっぱり、と目を閉じた。わかっていたことなのに、ずっと気づかないふりをしていた。
 はじめて会ったとき、美沙は強い女性だと思っていた。言いたいこともあまり言えない自分と比べ、言いたいことを言い、前に立って人を引っ張っていける……そんな印象をずっといだいていた。
 そんな強い人が、たかが不妊でこんなに弱るとは思いもしなかった。いや、思いたくなかった。だが、男である大輔には想像もつかないほど、「子供ができない」という事実は、美沙に重くのしかかっていたのだろう。
「どうして会社に電話したんだ?」大輔は言った。「スマホの番号を教えてくれてもよかったのに」
「会社に電話したら、他の社員さんもみんなわかるでしょ? 口うるさい課長さんだって、異常事態だってわかるから、大輔も来やすいと思って」
 自分が大変なときに、そんなことにまで気をまわしていたのか。大輔は申しわけないと思うと同時に、美沙の「大輔に来てほしい」という思いに頬を殴られた気分だった。
「もう、おそい」美沙は窓の外を見て言った。「明日も早いでしょう? 私は大丈夫だから、帰って休んで」
 美沙は微笑み、大輔の手を自分の手からそっとはなした。
 ずっといっしょにいたかった。だが、それが美沙の負担になることもわかっていた。
 マンションに戻ると、二十時をとうにすぎていた。
 眠らなければ、明日にさしつかえる。わかっていても、寝つけなかった。医師が言っていたように疲れているはずなのに。
 まんじりともできず朝を迎え、栄養のかけらもない食パンと水だけの朝食を胃に流しこみ、大輔は出社した。こんな食事だから、栄養失調に陥るのかもしれない。
 橋谷課長は大輔を見た途端、「ちょっと」と手招きした。
 美沙のことを訊かれるものと思っていたが、課長の口から出たのは予想もしなかった言葉だった。
「昨日のあれは、どういう料簡?」
 何のことを言われているのかわからなかった。美沙のこととは関係ない、何か仕事上のミスのことだろうか。
 橋谷課長は、察しの悪い子供に言うように、言葉を続けた。「仕事を途中で放棄して出ていくなんて、いったいどういうつもりなの?」
「放棄したつもりはありません。ですが、妻の一大事だったので……早退したことは謝ります」
「舞台俳優ってのはね」橋谷課長は言った。「絶対に舞台に穴を開けないものなの。たとえ親が死んでも、来てくれるお客さんを大切にして、舞台に立つ。それがプロの俳優というものなの」
「はあ」大輔は軽く首筋をもんだ。神経が過敏になり、こめかみがけいれんを起こしかけているのを感じた。
「二宮、あなたこの仕事はじめて何年?」
「十二年ほどだと思います」
「それだけやってきて、いまだにその程度の『プロ意識』しかないわけ?」橋谷課長の言葉には、明かないらだちがふくまれていた。
「プロ意識は重要だと思っています。ですが、妻は僕の家族です。ほうってはおけません」
「奥さんに家族はいないの?」
「両親は健在です」
「じゃあ、親に任せればいいでしょ? あなたが出ていく必要なんてどこにもない。男なら仕事をしなさい」
 この女がいったい何を言っているのか、大輔には一瞬、理解できなかった。夫婦として、夫としての務めよりも、男なら仕事を優先しろと言うのか。
 あまりの言い草に何も言い返せずにいると、橋谷課長は冷たく言いはなった。「あと、今日は昨日早退したぶん、定時をおくらせます。残業は通常どおりです」
 昨日、会社を出たのが十二時。つまり、足らずの五時間ぶんを今日の就業時間にあてろということだ。退社時刻は二十二時になり、残業時間をふくむと、退社は翌朝一時になる。
「それは無理があります。有休を使わせてください」
「それがプロ意識の欠如だって言ってんの!」橋谷課長は声をあららげた。「今、会社は人が減って大変なの! だから残ってる人間みんなが頑張ってるの! ひとりだけ休もうとするな!」
 あまりの剣幕に、大輔はもう何も言うことができなかった。

 コンビニのおにぎりをひとつ食べ、大輔は風呂にも入らず布団に横になった。
 朝八時から翌朝一時までの勤務。しかも、今日も八時には出社しないといけない。毎日三時間の残業をしているうえに、この強行軍である。食事がまともに喉を通らないほど、大輔は疲れきっていた。
 美沙のところへ行きたかったが、仕事の途中から、美沙へ会わないといけないということすら頭の中から消え去っていた。もっとも、この時間では面会など不可能だが。
 眠れたのは二時間程度だった。目覚まし時計に叩き起こされた。トーストだけの朝食を無理やり喉に流しこみながらスマホを見ると、実家から電話がかかっていた。昨日の午後七時。一番忙しい時間だ。
 あとまわしにしたかったが、心配させても悪いと思い、実家に電話をかけた。
 すぐに母が出た。
『大輔、どうして昨日電話くれなかったの?』
「ごめん、疲れてたんだ」
『それにこんな朝早くに電話して。年寄りは早起きだからいいけど、非常識じゃない』
「ごめん」最近、謝ってばかりだ。「何か用があったんじゃないの?」
『そうそう、そうだった』電話の向こうで母の声がはずんだ。『検査の結果、どうだったの? そろそろ結果が出てるとは思ったんだけど、全然教えてくれないから聞こうと思って』
 検査? 大輔は、自分が受けた不妊に関する検査のことだとすぐにわからなかった。
『あなたのせいじゃなかったんでしょ?』期待するような、有無を言わせぬような、母の強い口調。『やっぱり美沙さんがよくなかったのよね。でも、今は不妊治療で子供は作れるんでしょ?』
「いや、母さん、それは……」
『早く孫の顔が見たいわぁ。男の子でも女の子でもいいけど、できれば男の子よね』ふわふわと、夢でも見ているような口ぶりであった。
「……仕事だからまたかけなおすよ。じゃあね」母の返事も聞かず、大輔は通話を切った。
 鞄を持ってすぐに家を出た。電車に揺られながら、頭の中では最近の出来事がぐるぐると渦を巻いていた。思考はまとまらず、気がつくと会社についていた。
 はたと立ちどまった。社屋がいつもより大きく感じる。自分を圧死させようと迫ってくるかのようだ。膝が震えを起こす。大輔ははじめて、自分がまともな精神状態ではないことに気がついた。
 どうしてこんなことになった。どうしてこんな状態に陥った。
 きっかけは、美沙の不妊が明らかになったことだろう。美沙は義母に罵倒され、大輔は美沙を擁護しなかった。のちに不妊の原因は大輔にもあるとわかり、美沙と喧嘩になった。落ちこんでいる美沙に見向きもせず、倒れるまで体調不良に気づかなかった。
 坂道を転げ落ちるように、悪化していく自身と環境。それは美沙の不妊からはじまっているのか。
 大輔はうつむき、かぶりを振った。ちがう。美沙のせいではない。すべては、俺の責任だ。
 美沙の妊娠しづらい体質がわかったとき、彼女の前に立って、母に「No」と言わなければならなかった。子供なんていなくてもいい、そもそも母さんのために子供を作るわけじゃないと、自分の考えを明確にすべきだった。
 仕事もそうだ。人が辞めていくのは俺のせいじゃない。今、かかえている仕事の量は明らかに自分の能力をオーバーしている。これ以上は無理だと「No」と言わなければならなかった。
 残業に関してもそうだ。たとえ罵られようと、プロ意識が足りないと言われようと、美沙と向きあう時間や心の余裕すら奪われるような生活を強いられるなら「No」と言うべきだ。
 大輔は敢然と顔をあげた。会社は、もう迫ってはこなかった。
 仕事を終え、大輔は十七時に会社を出た。橋谷課長が「またか」と文句を言いかけたが、「妻のことが気になりますので」と言いはなって相手にしなかった。
 電車に乗るのももどかしく、大輔はタクシーを拾った。こういうとき、残業代がきちんと出ていることをありがたく思う。
 病室へ向かうと、美沙は身体を起こしていた。しっかり休んだせいか、顔色はいくぶんよくなっていた。
「検査では何も出なかったって」美沙は微笑んだ。「明日には退院できるから」
「よかった」大輔の肩から力が抜ける。美沙のそばに座り、うつむく、美沙もうつむいていた。
 どちらも言葉を発さないまま、時間がすぎた。大輔は膝のあいだで組んでいる手を見つめていたが、意を決して顔をあげた。
「あのさ」
「えっとね」
 同時に口を開く。目があった。お互いにかたまってしまう。
「あ、どうぞ」
「大輔から」
「じゃあ、同時に言おうか」
「うん」
 大輔には、お互いが何を言おうとしているのか、わかったような気がした。
「変えよう」
「変えましょう」

 ──長湯してしまった。
 バスタオルで髪をふきながら、大輔は洗面台のそばに置いてある時計をいまいましげに見つめた。
 気がゆるむと、つい昔のことを思いだしてしまう。押し寄せてくる波のようなもので、ああすればよかった、こうすればよかった、といらぬ後悔ばかり頭の中でくり返してしまう。
 身体をあらかたふき終えてから、洗面台の前に立つ。歯ブラシを手に取って歯を磨く。もうすぐ四十に手が届く年齢だが、虫歯になったことは一度しかない。歯の丈夫さは親譲りであった。
 ふと、流しに目を向ける。隅々まできれいに磨いてあり、口をゆすいだ水を吐くことすらはばかられる。美沙が掃除をしてくれたのだ。
 生活を変えるため、これから先の人生を変えるため、大輔と美沙はまず、住む場所を変えた。住まいを新しくすることで必要なものと不要なものをわけ、ゴミと判断したものは容赦なく捨てた。お世辞にもきれいに使っていたとは言えない部屋に謝り、二人は引っ越した。
 引っ越し先は、以前と似たような間取りの部屋だった。だが、この部屋はきれいに使おうと、美沙と約束した。
 あれから四年。結婚してから八年の歳月のうち、半分をこの部屋ですごしてきた。美沙との約束は、きちんと果たされた。いや、果たしてきた。
 大輔は自分の人生を変えた。美沙には言っていないが、ずっとイエスマンで、言いたいこともあまり言えなかった自分を、無理やりにでも変えてきたのだ。
 まず、親にNoをつきつけた。不妊治療をしても、妊娠する可能性は限りなく低いと診断された。それでも不妊治療を受けるかと美沙と相談した結果、
 ──子供がない人生が不幸とは限らない。
 そう言って美沙は笑った。それは、生まれてこられたかもしれない命に、Noをつきつける行為でもあった。
 笑ってはいたものの、美沙の精神的負担は相当なものだっただろう。「男は稼いでなんぼ」と言う橋谷課長同様、「女は子供を産んでなんぼ」という風潮は強い。子供がいなければ一人前とみなさない者もいる。
 だが、その価値観にも、二人はNoをつきつけることにした。他人や、世間の価値観で生きることほどつらいことはない。
 父は何も言わなかったが、母は泣きだし、治療を受けてほしいと懇願してきた。親を泣かせるほどの親不孝はないだろう。だが、大輔はもう、美沙の味方になると決めていた。
 美沙の言葉は強がりだったかもしれない。その強がりを本物にしてやろうじゃないかと、大輔は決心した。
 仕事にもNoをつきつけた。いくらなんでも仕事の量が多すぎる、人が辞めたのは僕のせいではないと、はっきりと言った。橋谷課長とは喧嘩になり、あいだに立たされた係長は右往左往するばかりだった。
 だが、結局は橋谷課長が折れた。これ以上強弁し、万が一にでも辞められたら、今度こそ仕事がまわらなくなる。そう考えたのかもしれない。あるいは、たんにうっとうしくなったのか、あきれはてたのか。
 セクシャルハラスメントとパワーハラスメントは今でも続いている。だが、大輔はもう気にしなかった。むしろ、すっきりした。言うべきことを言い、主張すべきを主張し、美沙と約束したとおり、「変えた」のだ。
 時間的なゆとりができると、私生活も変わった。自炊することができるようになり、美沙に教わったり、自分で料理の勉強をしたりするようになった。やってみると面白く、料理教室に通ってみようかと本気で考えていた。
 時間があるおかげで、雑な生活にもNoをつきつけることができた。こまめに掃除をし、洗濯したものをきれいに畳むようになった。意外にも、美沙は掃除や洗濯が苦手だった。ひとり暮らしは長いと言っていたが、部屋は汚れていることが多かったという。
 大輔は美沙から料理を教わり、美沙は大輔から掃除や洗濯を教わった。ずっとできなかった、「ていねいな生活」が送れるようになった。
 今日のように、ときおり昔を思いだすことはあるが、過去はもうおぼろげになっていた。今の生活が充実しているからだろう。
 居間に戻り、「お風呂あがったよ」と告げると、美沙は「わかった」とTVを見たまま言った。
 美沙は動物の番組を見ていた。人より猫の方が多い島を取材したものだ。そういえば、美沙は猫が好きだったか。
「これだけ見たら入るから」
「いいよ別に。美沙さんが最後だし」大輔は冷蔵庫から発泡酒の缶を取りだし、グラスを持って居間へ向かった。
 グラスに半分ほど発泡酒を注ぎ、そっと美沙にさしだす。
「ありがと」美沙はグラスに口をつけた。風呂に入る前だが、発泡酒程度なら大丈夫だろう。
 こういう気づかいができるようになったのも、いろいろな面で「ゆとり」ができたからだろうか。
 そういえば、以前、「美沙『さん』なんて他人行儀だな」と友達に言われたことがある。四年前は呼び捨てだったし、それが普通だと思っていた。
 だが、美沙のことを本当に好きなら……愛しているなら、言葉づかいからなおした方がいいと大輔は考えるようになった。自身を「俺」と呼ぶことをやめ、美沙には「さん」をつけるようになった。他人行儀ではなく、親しい者への礼儀だと大輔はとらえていた。
 一方で、美沙は大輔を「さん」づけで呼ばない。そのことを指摘するつもりはなかった。今は美沙の愛情を、言葉や行動の端々から感じとることができる。あくまで自分なりのやり方なので、強制するつもりはなかった。
 猫の番組が終わったあと、美沙は「ごちそうさま」とグラスを返し、風呂場へ行った。大輔は缶に残った発泡酒を飲み干し、
「……ペットを飼うのもいいかな」
と、ひとりごちた。

(了)


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