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尾崎放哉&鐘⓷

須磨寺時代

師走の夜の釣鐘ならす身となりて
(しわすのよるのつりがねならすみとなりて)

次男の放哉は長男としての責任を負わせられたようだが、彼の心は誰かに甘えたかったように思われる。現実には社会人が甘えられる場所も人も少ない。そんな放哉であれば職場でも社会でも安住することは難しい。生涯を転々として暮らしても・然もありなんとなる。一高入学した翌年の18歳か、先輩・荻原井泉水に出会って以来、師匠として慕いつづけたらしい。結局、1歳年上の井泉水が放哉にとって希少な存在だったと言うこと。井泉水にしても己を慕う放哉は可愛かっただろうな。
宗教施設であれば安寧を得られると放哉が思っても不思議はないが、現実は別であれば放哉の思いどおりに事は運ばなかった。寺の内紛とか・酒癖の悪さから放哉が居つくことはなかった。上記の句は放哉の仮の宿となった須磨寺での作品。世間は慌ただしく過ごしているが放哉は慌ただしい世間から距離を置いて鐘を突いていたようだ。須磨寺は源平ゆかりの名刹としても有名だが、嘗ては天皇の別荘だった須磨離宮(武庫離宮)の圏内になるのかな。

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