(メモ)11/4「絶縁後の心の穴が欲求を満たす邪魔をしてくる」みたいな話

愛着障害を克服した!新しい人生が始まる!責任と自由を取り戻した!
とつい先日宣言したにもかかわらず、欲求をがんがん満たし落ち着いた頃、心に穴が空いているような感覚があった。喪失なのか克服なのか生まれ変わったばかりの生傷が痛んでいるのか分からない。

ただ「感謝したがる意志」が襲ってきていた。

私は、親の支配を捨てて自分の人生に責任と自由を取り戻すために
過去に起きた、起こしてきた失敗と大損を自分のものにすると決めた。また幸せを作ることから逃げるために親への感謝を利用してはならないとした。

しかし実のところ、大損など全く許容できておらず、いまだに過去の親からの仕打ちを赦せていないから「感謝したがる意志」が出てきたのではないかと疑った。

大損を許容していなくて、ただ親に罪をなすりつけ責任逃れをしているだけではないのか。責任を取ることについてぐるぐるしていた。

今は親への強烈な憎しみや怒りも湧いてはこない。ただ怖い。親への感謝を利用され自分の本音を誤っているとされることが怖い。

今回は自衛のために親との連絡を絶つという極端な境界線を設けた。
5年間ほど絶縁状態だったので、関係性はほとんど変わらないが
改めてというか初めて親に手紙を書いた。
親は私以外に生きがいを見つけましょうとかそんな優しいことまでは書けなかった。呪いの文句と私自身の宣誓文を送った。

「親への感謝(大好き)」が度重なる裏切りによりその信頼性を落とし、私にとっては感謝=支配の許容という認識である。
金を与え、感謝を押し付けられ、利用された。
金をやるから声をきかせろ。
親たちの一方的な愛情(金)で私の感謝は買われた。金はいらねえよ。金さえあれば私に感謝してもらえると思ったか。お前の自己満のために私を使うな。と思ってきた。

そんな中、先週祖母が小遣いを送金してきた。最初はまた金で私の感謝を買われるのかと思ってもいたうえ、「感謝したがる意志」も出てきた。モヤモヤした。
祖母と親は何が違っているのか分からなかった。加害の量か?
今までは金は祖母に会いに行かされるための対価でしかなかった。
もし自分への愛情を注ぐ技術や知識を習得すれば、愛情の代替品である金にも別の意味を見出せるのではないかと考えた。素直な感謝ができると考えた。感謝=支配の許容という認識は消えてくれるかもしれない。

これまでもらった愛情を無駄にしない、愛されたことをなかったことにしないために生きるのか?これは違う。これじゃ昔の自分に逆戻りだ。
親は親が望んでやったことだ。それを感謝と受け取れるかは私が決めていい。でもお金を嬉しく賢く扱えるようになることができればより大きな感謝が湧くのだろうとも思う。貯金至上主義を脱し、貯金という安心感を超える大きな愛情の発見への期待でもある。

欲求を満たそうとすると、「感謝したがる意志」が襲ってくる。小説を読もうとするとき、サイクリングに行こうとするとき、ご飯を食べだすとき、自分に愛情を注ぐその瞬間に現れる。喜びへの確実な期待が私の中に感謝を産む。

産んでくれたことへの感謝をか?あいつらにか?
いや、なにも親だけじゃない。
感謝を返すところなどどこへでも見つけられるじゃあないか。
本を書いてくれた人に。製本してくれた人に。自転車を作ってくれた人に。そのデザインを考えてくれた人に。ご飯を作ってくれた人に。ご飯を運んできた人に。運べる道路をつくった人に。土地に。水に。空気に。宇宙にと。

でも私が存在するのは親が産んだからだでもある。
くそっ。
罪を憎んで人を憎まずだぁ。うるせえ。

いつか私は私のために親を赦さなければならない日が来るんだろう。

でも「感謝したがる意志」の帰る場所は見つけることができた。
穴は埋まった。ほぼ。














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