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「自分と似ていない人ほど面白い」違うからこそ得られるアレコレ。

皆様こんにちは PICOです。

今回の記事のタイトルは「自分と似ていない人ほど面白い」と題しましたが、コレに対して皆さんはどう思うでしょうか。 自分と似た性格の人と一緒に居た方が気が楽だと言う人は結構な人数居るとは思いますが、確かに「楽」かもしれませんが、それは「楽」であって「楽しい」訳ではないのではないかと思うのです。 付け加えるならば自分とよく似た性格の人から得られる物は案外少ないのではないだろうか・・・と、私はそう感じた時から自分と性格が全く違うタイプの人にとても興味が沸くようになったのですが、それにより私は随分多くの事を学ばせて貰った様に思うのです。

そんな訳で今回は私が感じた経験や、私なりの考えを記事にしてみました。 もし宜しければ読んで頂ければ幸いです。

◆「自分と違う」を考える。

子供の頃、お友達と意見の食い違いで喧嘩をした事があると思う。 『僕はこう思った』『私はこうだと思った』そう言った自分の意見を言えると言う事はとても素晴らしい事だと思うのだが、それが年齢を重ねて行くと自分の意見を言うのが恥ずかしいと感じたり「自分の考えや意見が他人に否定されたらどうしよう・・・」と思う事が増え、なかなか自分の意見や考えを言えなくなり、その場に居るリーダー的な人間が言い出した事に無難に同調して、自分の考えとは異なった行動を取ったりする事が【普通】だと言う考えを持つ人達も増えていくのではないかと思う。

しかし、先にも記載したが「意見を言う」と言うのはとても大切な事で、それを難しく考える必要などもない。 何故なら、自分がどう思うか、どう感じるかと言う事には正解は無いからである。

子供の頃、国語の授業などで『筆者はこの時、どう感じたかを書きなさい』などと言う「著者の心情を書け」と言う問題を目にした事は誰しもあると思うのだが、私はこの手の問題が大の得意だった。 さらに、作文と言う「自分の考えや思いを好きに書いてよい物」が大好きだった。 理由は明確で算数と違って『正解が無い』からなのだ。

「筆者はこの時、どう感じたか」などと問われたところで、その問題の回答はその筆者しか分からない訳で、それを学校の先生などが分かるはずもない。 学校の先生はあくまでも『こう考えているのが無難だろう』と言う考えで点数をつけているに違いないのである。

つまり、その問題に答えは無いと言うのが答えなのである。

しかし、そう言った正解の無い問題に対して人と少し違った視点から答えを出すと、決まって外野が『それは違うと思う』『そんな事は思ってない』『お前は馬鹿だ』などと野次を入れてくる事がある。 これは国語の授業云々の話しだけではない、日常生活のあらゆる場面でも言える話である。

人の思いや意見に正解は無いのだ。 重要なのは相手の意見や考えを頭から否定して、さも自分が正しいと言うその行為を私は止めるべきだと思うのだ。 人の意見を肯定する必要は無い。 ただ、一度考えて欲しい。

正解の無い問題の正解を自分が持っている可能性はどの程度なのかと。


◆「自分と似ていない人」は面白い。

冒頭に少し書いたのだが、自分と性格が似ている人と一緒に居るのは凄く気が楽なのだが、自分と似ていない人と一緒に居ると沢山の発見や面白い事に出会う機会や頻度が違うと思うのだ。

例えば、考えてみて欲しいのだが。 目の前に分かれ道があり、片方は「山」へ行く道で、もう片方が「海」へ行く道だとする。 お互いが「山」があまり好きではなければ、選ぶ道は「海」しかなくなる訳だが、ここで性格の異なる相手と一緒に居る場合「山」へ行くか「海」へ行くかの「話し合い」が始まる訳である。 さて、ここで『僕は山が好きではない』と言うのか『海へ行きたい!』と言うのか、どう相手に伝えれば相手にそれが伝わるのだろうかと人は考えると思うのだが、それはお互い様な訳で、相手は『海は好きではない』『山へ行きたい!』と言う話になれば、いずれかが折れて、いずれかの道を選ぶ事になる。

さて、ここで私は思うのだが、自分が行きたい道へ進めなかった事ははたしてマイナスなのだろうか。

自分と似た性格の人と一緒であれば行くはずのない道を歩く事は、はたしてマイナスなのだろうか。

山には山の良さがあり、自然豊かで綺麗な草花が咲いていて、動物達が見られるかもしれない・・・けれど、海では船やボートや魚が見れるし、ビーチで泳ぐ素敵な水着のお姉さんが見られるかもしれないのだ。 そう考えれば、自分の進みたい道ばかりが正解でないのではないかと思うのだ。

勿論、海へ行った事で何かトラブルに巻き込まれたり、嫌な思いをするかもしれないが、それは「結果」の話であり、その結果に行き着くまでの「過程」では、やはり違った景色を見る事は出来るのだ。 自分の良く知った景色、自分の好きな風景、それは勿論素晴らしいのかもしれないが、時に相手の知っている景色を教えて貰うのも悪くは無いのだ。 そして、その景色が気に入れば、今度はその景色も自分の良く知った景色の一つになるのだ。

そんな事を何度も繰り返していると、自分と似ていない人の行動に興味が沸き、今度はどんな事をするのか、今度はどんな所へ行くのかと、普段の自分では行く事のない新しい場所へと連れて行ってくれる気がする様になったのである。

自分が今まで生きてきて「良い」と思った物は自分の目で見て、自分が感じた事で、それは紛れも無い事実だけれど、相手も同様に、相手が相手の人生で感じた「良い」と思う物があるのである。

そんなお互いの「良い」と感じた物だ、面白くないはずがないのだ。 自分と似た人と一緒に過ごす時間は落ち着いていて、とても楽でいい時間なのかもしれないけれど、自分と似ていない人と過ごす時間は落ち着きはしないし、楽でもないとも思うけれど、その代わりに新しい「発見」や「出会い」がある事だけは間違いないと思うのだ。


◆引っ張り上げてくれるのはいつも似ていない人。

私は以前、物凄く酷い体調不良で約1年間、ほとんど何も出来なかった時期があったのですが、その時に私を救ってくれたのは、私とは全くタイプの違う1人の友人でした。

私は基本的に安定志向と言えば聞こえはいいかもしれないが、チャレンジ精神の欠片も無いような人で、新しい物事には挑戦せず、決められた安全だと知っている道を歩き、過去に食べた美味しかった物ばかりを食べて過ごしている様なタイプの人間なのですが、そんな私の友人達は私が体調不良になった際、皆私の元から去っていきました。

勿論「体調が悪い人を連れ出したら悪い」とか「元気が無い時はそっとしておいてあげるのが一番」と言う、そういった思いもあったのかもしれないが、多分一番は【似た物同士は一緒に居ると似た様になる】からだと言う事を脳が理解しているからなのではないかと思ったのだ。

これは分かりやすく言えば、自分が調子の良い時は、相手も一緒に調子が良く、二人で楽しく盛り上がる事が出来るが、それは逆に言えば「自分の調子が悪い時は、相手も一緒に調子が悪くなる」と言う事である。 それはお互い性格や考え方が似ているため、今ある現状の打開策や改善策がお互いの持っている手札の中に存在しないからだと思ったのだ。 更に、そう言う時に限って自分と似たタイプ同士の場合「相手の悪いところ」が見えると、それがそのまま「自分の悪いところ」だったりする訳で、自分の嫌な所を相手に見せ付けられている様で、何だか嫌な気持ちになったりするのだ。 そういった理由から自分が落ちている際は自分と似たタイプの人は距離を取るのではないか・・・と、私は感じたのだ。

しかし、私の元を去らず、ずっと変わらず私と接してくれる友人が1人だけ居た。 その友人こそ、私とは全く性格が異なるタイプの友人だったのだ。

『体調悪いなら気分転換にパチンコにでも行くか!』

『カラオケはストレス発散出来るぞ!歌え!』

『肉を食え!肉を食えば元気が出る!』

友人はそう言うと積極的に私を連れ回したのだ。 当然当時の私には「体調が悪い時に出掛ける」などと言う発想など無く、家で静かに体調が良くなるのをただジッと待っているばかりの日々だったが、こうして友人があちこち連れ出してくれたおかげで体調こそ改善はしないが、心や気持ちは随分と楽になった事を今でもハッキリと覚えている。

普段の自分であれば膝を抱えて蹲っていたところに差し出された手。

その手を取って進んだ先は私が考えもしなかった、一度も見たことも無い、経験した事も無い事で溢れていたのだ。

私はそこで始めて【似ていない者同士は、一方が駄目になった時に、もう一方が手を差し伸べられる】のではないかという事に気付いたのだ。


◆最後に・・・。

随分とアレコレ書いてはみたが、ここで改めて冒頭の話に戻りますが「自分と似ていない人ほど面白い」と言う今回のタイトルをどう思いましたでしょうか。 自分の考えや意見は自分だけが持っているもので、それに正解も不正解も無い、自分の信じている物だけが正解ではなく、案外そうでない物に人は助けられて、支えられて生きている。 そう言う事が分かると、自分と違う考えや意見を持った人達の見方が変わってきたりはしないだろうか。 そして、そう言う人達を「面白い」と思えないだろうか。

自分とは違う考えや意見を持っている人を、まず否定する事を止めて相手の考えを理解してみようとする事。

【結果】ではなく、そこへ辿り着く【過程】を楽しんでみる事。

普段と違った景色は、必ず人生で役に立つ時があると思うのだ。

いつか私を救ってくれた、支えてくれた友人への感謝を込めて。 この記事を書きました。 いつかその友人が座り込んだ時、私が見てきた沢山の景色を友人に見せてあげられたら良いと思う。

似ていないから出来る事がある。 痛みを知らないから出来る事がある。

だから、どうか自分の気持ちに素直になって、相手を否定するのではなく、お互いに良い意味で自分の意見を言い合える関係になれれば素敵だと思う。

いつかお互いの知る最高の景色を共有出来ます様に。


それでは・・・また次回の記事でお会いしましょう。


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