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さようならラムセス

2024年3月2日 午前1:00過ぎ これが長期間に及んだラムセスの闘病生活が終わった時間である。
ラムセスは私の手の中で最期の息を吐き、何度か痙攣した後、全身の筋肉から力を失い、その生を終えたのだった。
ここ3年間は胆嚢切除手術を受けるような大病を患っても何とか復活を遂げていたものの、悪性リンパ腫相手では奇跡が起きることはなかった。
聞くところによれば、悪性リンパ腫に罹患すると体力のある若い猫でも1年と持たずに逝ってしまうという。
ラムセスは16歳10ヶ月という高齢だったことを考慮すれば相当に頑張ったと言えるだろう。

人と猫では寿命が違うため、時間の感じ方も大きな差があるはず。
計算上、猫は1年で4歳年をとるため、闘病していた8ヶ月という時間はラムセスにとって、人の3年間に相当する。
これまでの3年に及ぶ闘病生活は、人で言えば12年もの長さと同義ということになるわけで、繰り返しになるが本当によく頑張ってくれたと思う。

その反面、ここまで長期にわたる闘病生活を強いてしまったことが正しい事だったのだろうか?と今更ながら考えてしまう。

果たして「助ける」とは一体何だろうか?
どこまでが助けるであり、どこからが押しつけで、お節介で、そしてエゴなのだろうか?
いくら考え悩んでも、この問いに正しい答なんて見つからないのは分かっちゃいるのだが、なかなかそう簡単に割り切れるものでもない。
しかし結局のところ、この選択が正しかったにせよ間違っていたにせよ、選ばなかった他方の結果を知ることが出来ない以上、悩み苦しむのは避けて通れない事実である。

実際、6年前に妻が他界した時に感じたこの悩みは、いまだ解決することも和らぐことも出来ずに、私の心にくすぶり続けている。
この先永遠に消えることはない重石を、私はまた1つ背負い込んでしまったわけだが、この重さこそが見送った者が負うべき定めであり逝ってしまった者との繋がりでもある。
ラムセスとの大切な繋がりであればこそ、そう簡単に捨てることなんで出来はしないのは当然のことだろう。

そして、最期まで付き添った私はラムセスにとってどんな存在だったのだろうか?

無二の親友だと認められていたのなら本当に素晴らしいことだし、そうであって欲しいと願うのは過ぎたる欲求ではないと思いたい。

最後にひとこと、これだけは言いたい。
今までありがとう。

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