Twitter見るのやめちゃった。

わたしは、Twitter[X]にアカウントがひとつだけある。すっかり非公開にしたまま何年か経った。いまのアカウントの前に使っていたアカウントは、公開と非公開を適度に繰り返すことがだんだん増えていき、その不安が消えなくなって非公開にすることで落ち着くと思うようになった。
その頃、メディアも公開状態の危険性を知らせたりする時期になっていて、もう公開状態にはしない方がふつうだし、非公開でいいんだと思えた。もともとちょっと怖いと思いながら2013年頃に最初のアカウントをつくって、何もわからないまま鉄板の上に歩いていった感覚だった。その後も、あまり路線という意味で定まった沼を作成できない状態のまま、人と繋がることもほとんどなかった。リプライによる交流は極まれに起きた。オンラインゲームを数年遊んでいたときに、インターネットのコミュニケーションの難易度やチャットのうまさが追い込んでくるやり方に出会ってしまったことは、そのときはわからなくても辞めてからより怖さが倍増して泣くほど怖くなったことがいろんな場面でふわっと出てきてしまう。
Twitter[X]は、楽しむための使い方をメインにできる人にはお祭りのような気分になれるシステムになっていたのかなと、あとになって思った日もあった。

わたしのアカウントは用途がこれとっておきたいに似たものだったから、流れてくる情報を見ることが多かった。とても使いやすくて、ツイートによるお知らせのようなものが見やすかったから。わたしにとっては電子新聞のようなものだとつぶやいたこともあった。新聞はひとつ契約してるから、それを見るほうがいいかなと思う。
それでも、Twitterはいろんな情報が流れていたから、リツイートやいいねをすることは楽しかった。マクドナルドの季節限定メニューとかモスバーガーのうまそうなバーガー写真、気象情報を眺めていた。使い方が知りたいものを見る状態になってからは、恐怖でいっぱいになることがなければ、ひとりの時間として安定していた。それはわたしが非公開でも可能な公式アカウントによる情報がメインだから、いつの間にか定着した使い方になっていた。

最初のアカウントは自分がツイートすることは、ほとんどなかったことを思い出した。忘れた頃に、その感覚を少し思い出した。ひとりふり返って、非公開にするデメリットにも俯いたり、これも諦めたものだって数えるように負の感情がふしゅっと出そうにもなった。即座にそのふしゅっとする感情は忘れ去るくらいになったから、何でも慣れればタラレバみたいになる😩

思い入れはカゴにある感じだから、使い方が似ていた人同士にしか思い出の共有もないし、話も滞る。けれども、だれかはそれを奥深く楽しみ、大きな感謝をする。SNSにもインターネットにも、最初に贈られるのは舞台やお話が終わるときに言われるような言葉が多いほうがいいよね。
そのきっかけは、わたしにはTwitterだった。
嫌なことがいっぱいになっても、感謝も尊敬もないものか考えたりもしたんだけど。わたしには、わたしは、そういう言い方になりがちなわたしの経路よりも、見たいとされてそうなものはインターネットが千と千尋の神隠しに出てくる湯屋のように、明かりを灯して稼働し始めて、たくさんの神々がやってきて、千のように夜をこえて朝がくる時間を表しまくった文章。それを読めば、まるっとわかる!こうだったんだ❕😀
最後は、なぜかみんなで突然ポジティブ汁。

わたしは果てしない浅瀬を歩き、何回か穴に落ちた感じがします。気軽に落ちれる穴のような、SNSの魅力😵‍💫

そこには自然な自虐がありました。文章に流れるように「ほんそれ」を無造作に置く。感謝との距離cmを味わい深く、その分わたしはすなおのじかん。読んでいたら自然と笑うところが自虐的なフレーズ。そんなことを考えながら文章を書くようになってしまいましたね🙂
そして、わたしは自虐で申し訳なくなる次のステップへ。いつか全力ポジティブ100%な記事を完成させたくなります。

「自虐があると読むのやめてる😉」
見たことないフレーズ。まるで魔法ね!🧚💫
Twitterは、本を読み終えるようにパタンと閉じたい。