【プロ野球 名場面第17回】清原和博と平沼定晴が起こした大乱闘(1989年)
この年、西武ライオンズには新戦力が加入していた。オレステス・デストラーデだ。前年大活躍したバークレオが極度の不振に陥り、アメリカで選手を探していたところ、キューバ人スイッチヒッターのデストラーデに白羽の矢が立った。6月に加入すると、序盤は変化球に苦しんだが、夏場に調子を上げ、83試合で32本塁打と驚異的なペースで量産。マスコミにもファンにも認められたデストラーデは秋山、清原とクリーンナップを形成し、彼らは頭文字を取って「AKD砲」と呼ばれ、親しまれる。
こんな強力打線の中でも清原和博はこの年、プロ入り4年目を迎え、堂々と4番に座り、パ・リーグの顔的な存在となっていた。1年目は31本塁打で高卒新記録を更新すると、巨人との日本シリーズで涙にくれた2年目は29本塁打、3年目は31本塁打と量産し、そろそろ打撃3部門のタイトルを取ってもおかしくないとのチーム内外からの期待が高まっていた状況だ。そして4年目の6月4日には、史上最年少21歳9か月でのプロ通算100号本塁打を達成している。
また、清原を語る際によく言われるのが出塁率の高さである。主要打撃3部門は、打率、本塁打、打点であり、大衆的にはこれらで評価されることが多いが、四死球も単打に近しい価値であることから、(単打でもランナーの走塁によって四死球以上に進塁する可能性があるので、単打の方がやや価値が高い。然し、ピッチャーに球数を投げさせるという効用が四球にはある)当時の森監督は清原を高評価していた。四死球の多さには、清原の選球眼がいいこと、また投手からストライクでの勝負を避けられることが多いことが起因する。当時のパ・リーグの投手陣はやや内角が弱点とされる清原を執拗に攻めていた。従って、四球も多かったが死球も多かったのだ。
そんな状況下で事件は優勝争いの真っ只中9月23日のロッテ戦で起こってしまう。マウンドには平沼定晴が上がっていた。先日投稿した落合博満の電撃トレードで中日からの見返りとなった投手である。平沼は、千葉商大付高時代、1982年秋のドラフト会議で2位指名を受けるも、4年目のオフに本トレードでロッテに移籍することになるのだ。
https://note.com/wildcard_koto/n/na36b05f362a6
平沼も若かったが必死だった。この世界、ドラフト順位では飯が食えない。しかも、「プロッパー」でない平沼は何よりも実績が求められる。前年には尽誠学園高から伊良部秀樹が入団していた。「自分の代わりはいくらでもいる」と悟り、何とか生き残るために、何とか首脳陣にアピールするために、平沼は強気の投球に拘る必要があった。4回、バッターボックスには清原が立っていた。平沼は、内角にシュート気味のボールを投げた。清原はよけきれず、当たってしまう。次の瞬間、思わぬ光景を目にしてしまう。清原は我慢ならなかった。「ぶつけんじゃねー」と怒りを露わにし、平沼にバットを投げつけたのだ。後にも先にも目のあたりにしたことのないシーン。バットはバウンドして平沼の膝を直撃。平沼も負けずと清原に走って向かっていくが、清原もジャンプして平沼に体当たり。平沼はふっとばされ、両軍ベンチから選手が入り乱れて大乱闘となった。清原は退場を宣告され、2試合出場停止となった。清原はそのとき連続試合出場記録を続けており(490試合)、連続試合出場の世界記録を持つ大先輩衣笠のことを尊敬していただけに、大事にしているバットを粗末に扱ったことで、その記録も途切れさせてしまったことを非常に悔いたというエピソードが残っている。
https://www.youtube.com/watch?v=85D0UApDJwM
この年清原は35本塁打を放ち、ホームラン打者としてのプレゼンスを高めた。死球はパ・リーグ最多の16、出塁率は.424と2位に輝いた。この頃、皆が清原をもてはやす中、清原と親交のある(清原も落合を師と仰いでいた)落合は「お前、よけるのが下手だなー」と唯一苦言を呈していた。その後の清原のプロ野球生活を見渡したとき、この落合の珠玉の苦言は清原にはどう聞こえていたのだろうか。
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