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【プロ野球 名場面第12回】吉村禎章の悲劇~大事故レベルの大怪我~(1988年)

1980年代中盤から後半にかけての巨人は、こんなオーダーだった。捕手は山倉、一塁手は中畑、二塁手は篠塚、三塁手は原、遊撃手は岡崎・川相、外野は、左翼手は松本、中堅手はクロマティ、右翼手は吉村といったところで、駒田がこれから台頭といった感じであった。こうやって見ると、悔しいが名選手揃いだなあと思う。また、投手陣も江川、槇原、ガリクソン、桑田の先発陣に、角、鹿取、サンチェ等充実しており、第一次王政権が5年で1度のリーグ優勝しかできなかったのは、当時の王がまだ監督として未熟だったからだろう。原にバントをさせてみたり、やたらと神経質な采配が多かった印象だ。
吉村は、PL学園高から巨人入りし、1982年プロ生活をスタートさせている。4年目の23歳1985年に初めて規定打席に到達し、3割2分8厘のハイアベレージを記録。翌年1986年も3割1分2厘、1987年は3割2分2厘、しかも30本塁打の大台の乗せているのだ。守備は弱肩と言われたが、それを差し引いても3年連続の3割、しかもクリーンナップを担っており、若くしてセ・リーグのスター選手の仲間入りをしていたといっても過言ではなかろう。5歳年上の原よりも既に怖い存在となっていた。
巨人ファンもアンチ巨人も、巨人に興味のない人も一体吉村はどんな選手へと成長していくのだろうと思っていた野球ファンも少なくないはずだ。

そして、1988年も開幕から順調にヒットを重ね、夏場を迎えていた。7月6日巨人、中日戦が行われた。当時毎年この時期は巨人の主催試合が札幌円山球場で行われていたのだ。3回吉村はプロ通算100号を達成する。その試合の8回表左翼を守っていた左中間への打球を追い、中堅手の栄村忠広と大激突してしまうのだ。左膝靭帯断裂、半月板を損傷し、スポーツ医学の権威であるジョーブ博士も、「こんな大怪我は見たこともない」と診断したほどだった。
https://www.youtube.com/watch?v=4o4Ze-F3fdM


それでも吉村は腐ることなく、リハビリした。1軍戦復帰は、1989年9月のことだった。代打で登場したのだ。私もこのときはテレビ観戦していた。あの地響きとも思える巨人ファンの声援は、ブラウン管を通しても迫力があった。アンチ巨人としての哲学を確立していた私であったが、あの時ばかりは「ヒットになってくれ」と思ってしまった。(川崎健次郎、誠に申し訳ない)。セカンドゴロだったが、惜しみない拍手が球場を包んだ。

それから吉村は貴重な代打の切り札として活路を見出した。1998年限りで引退し、通算安打数は964本。「もし吉村があの大怪我をしていなかったら、どれほどの選手になったのか。2000本安打は余裕だっただろうな」などと、これまたアンチ巨人の父とは時折議論した記憶が蘇ってきた。今の巨人の組閣も全く違うものになったかもしれない。「たら・れば」はいつの時代も禁物だが。

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