見出し画像

【プロ野球 名場面第10回】たかが江川されど江川 ~江川卓まさかの引退~(1987年)

江川卓ほど評価や好き嫌いが分かれる選手はいないかもしれません。「いいおじさん」風になっている江川ですが、激動の野球人生を過ごしています。江川の野球人生を簡単に振り返ろうと思います。

作新学院高時代からその実力は突出していました。県予選で完全試合やノーヒットノーラン何度も達成し、スピードガンがなかった時代ですがプロを通じても高校時代が最も速かったという説もあります。江川が甲子園に初登場したのは、高3のとき春選抜大会のとき。観衆は度肝を抜かれ、江川は全国区となります。ベスト4に進出し、計4試合で60奪三振を記録しました。バッターがボールを前に飛ばすと拍手が湧いたというのですからその実力がうかがい知れます。そのあまりに早い速球から江川は「昭和の怪物」の異名を取りました。江川は同年秋のドラフトで、巨人入りを熱望します。然し、抽選の結果、阪急が交渉権を獲得。江川は頑なに拒否して、法政大へ進学します(本人は慶大に行きたかったが不合格)。大学球界でも圧倒的な記録を残し(東京六大学リーグ通算47勝、歴代第2位)、引き続き巨人入りを切望しますが、クラウンライター(現在のライオンズ)が交渉権を獲得。「九州は遠い」とまたもや入団を拒否し、今度は南カリフォルニア大に籍を置き、1年後のドラフト会議を待ちました。そして事件は起こったのです。

江川は、1978年ドラフト会議の2日前11月20日に緊急帰国します。プロ野球の協約では、「前年のドラフト会議で得た独占交渉権が当年ドラフト会議の前々日に喪失する」旨規定されており、巨人サイドは11月20日にクラウンライターの江川への独占交渉権を喪失したと解釈し、突如11月21日に江川卓との契約を発表しました。俗に言う「空白の一日」で、この協約の穴をついたのです。当然のことながらセ・リーグ事務局はこれを無効としたところ、これに怒った巨人はドラフト会議をボイコットという暴挙に出ます。巨人不在の中ドラフト会議は進められ、抽選の結果、阪神が巨人の交渉権を獲得しました。巨人は「12球団が揃っていないドラフト会議こそ無効」と譲りませんでした。この空中分解した状況を鑑み、コミッショナー裁定により、一旦阪神に入団という形を取り、巨人に江川を「移籍」させる形で決着したのです。その移籍の条件は巨人からの選手の見返りと江川の開幕からの2ヶ月の出場停止でした。なんと巨人は当時エースだった小林繁を差し出しました。

こうして江川は紆余曲折を経てプロ入りしたわけですが、1年目は出場停止もあり、9勝に留まったものの、2年目は16勝、3年目は20勝と最多勝を獲得する等、その後も二けた勝利を続け、セ・リーグを代表する投手との評価が定まっていきます。また、プロ入り6年目1984年目のオールスターでは、8者連続奪三振を記録し、格の違いを見せつけました。ホップするともいわれたストレート、大きく曲がるカーブと球種は2つしかなかったものの、球威、コントロール抜群であり、数々の賞を受賞しました。

一方で江川の入団の経緯から江川を酷く嫌う記者連中がいたことも確かで、投手5冠に輝いた1981年は「人格的に相応しくない」などと嫌われたとされ、投手としての最高栄誉である沢村賞の受賞には至らず、同僚の西本聖が選出されました。

そしてプロ入り9年目の1987年32歳のシーズン、9月の広島戦で渾身のストレートを法政大の後輩小早川毅彦に2打席連続本塁打され(2打席目はサヨナラ)、引退を決意。この年13勝をあげながら、まさかの引退でした。
プロ9年間で通算135勝、タイトルは最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、最高勝率2回、また表彰としてはMVP1回、ベストナイン2回は普通の投手ならば評価されるのでしょうが、もし高校から即プロ入りしていたら200勝できたのではないかなどと「たられば」で語られることの多い選手でもありました。あれだけ世間を賑わせた江川がプロ在籍僅か9年32歳で引退した…。皆さんを彼をどう評価しますか?

https://www.youtube.com/watch?v=Ijdm_D-v5HE

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?