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学園祭回顧録

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1990年〜1992年の天童二中・天童四中時代、1993年〜1995年の山形東高時代、1996年〜2001年の東大駒場祭・五月祭時代、そして2019年、2020年の、駒場祭70回… もっと読む
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#駒場祭

学園祭回顧録:目次、およびはじめに

目次・はじめに ・中学1年の頃(天童二中文化祭):1990年(平成2年) ・中学2年の頃(天童二中文化祭):1991年(平成3年) ・中学3年の頃(天童四中生徒会):1992年(平成4年) ・高校1年の頃(山東祭):1993年(平成5年) ・高校2年の頃(山東祭):1994年(平成6年) ・高校3年の頃(山東祭):1995年(平成7年) ・高校3年の頃(生徒総会):1995年(平成7年) ・大学1年の頃(入学~新フェス):1996年(平成8年) ・大学1年の頃(Cruisin

学園祭回顧録:大学1年の頃(入学~新フェス)

【1996年(平成8年)】 中学から高校へ移った時も、通学手段が徒歩から電車に変わるなどそれなりの変化が生活の中にはあったが、それは高校から大学へ移った時ほどではなかった。東京大学になんとか合格した僕は、地元の山形から上京し東京で一人暮らしをすることになったのだが、東京での生活は山形での生活とは大きく違っていて、最初の頃はとまどいと同時に驚きと感動で一杯だった。雑誌が発売日にちゃんと発売されていたり、電車が10分に一本はあったり、今思うと些細に思えることも、あの頃は新鮮に感

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:6月~8月)

【1996年(平成8年)】 11月下旬に行われる第47回駒場祭の準備が本格的に始まりだしたのは6月頃であった。4月と5月にも毎週ちょっとしたミーティングは行っていたが、顔合わせや新入生への学園祭紹介が主で、そんなに深い話はまだあまりなかった。 6月になって最初に決めたことは、委員会内での役割分担(人事)であった。4月や5月から新入生を中心にどんな仕事をやりたいかの希望をとっていたのだが、それを正式に決めたのが6月の最初か二回目の総会(駒場祭委員会の会議)であったと記憶して

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:9月~10月上旬)

【1996年(平成8年)】 Cruising Partyでもそうだったが、駒場祭の業務を通じても僕は「絵を描く」ためのたくさんの技術を学んだ。それはパソコンの様々な技術であったり、あるいは組織の運営方法に関することであったり、または印刷上のノウハウであったりと様々であったが、それらの中で最も大きかったスキルはAccessによるデータベースの作成とPageMakerによる冊子の編集の2つだと思われる。そしてこれらのスキルを覚え始めたのは、大学1年9月の秋休みの頃であった。

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:1+1が2となる楽しさ)

【1996年(平成8年)】 Cruising Party以来、先輩方の様々な技術やノウハウを学んでは、自分の出来る範囲を広め仕事の処理スピードを速めることに精を出していた僕であったが、それは更に僕の「1人で仕事をする癖」を強めていった。悪く言えば、当時の僕は他人に頼まなくても済むほどの仕事能力を自分で身につけたいと思い、実際多くのことを自分1人で片づけようとした。そしてまた駒場祭委員会の体制は、そんな僕の性癖にとって都合のいいものであった。 先に述べたように、僕は1人で広

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:10月中旬~当日)

【1996年(平成8年)】 10月下旬か11月上旬頃に、ある人が駒場祭委員会の部室(学館211)を訪れ、当時の企画局長と話をし、何か本部企画で面白いことができないかという話が出てきた。そしてそれが「空白最強ライブ」だった。僕は最初の時期は関わっていなかったが、途中から企画局長に誘われたこともあって、この企画の主に裏方の作業に関わるようになった。 しかし今思うと、関わろうと決めた僕はまだ甘かったと思う。というのも、この頃僕は広告局関連の仕事はさほど忙しくなかったが、運営委員