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田中美津氏追悼 それぞれのフェミニズム

<70年代ウーマンリブの象徴的存在だった田中美津さんが7日亡くなられました。『Wife』も関わり、田中美津氏も出演した映画「何を恐れる」の上映会が先日あったばかり。久々にこの映画を見たYさんが、映画を観ての思いを送ってくれたので、転載します。>
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私のボスでもあった「わいふ」の元編集長、田中喜美子さんの呼び掛けで松井久子さんが撮った、日本のフェミニズムを先導してきた女性たちのドキュメンタリー映画「何を怖れる」。
仲間たちが応援していたのは知っていたけど、私が長野にいた時期に出来上がって観そびれていた。久しぶりの上映会があると知り出かけた。
10年くらい前の映像だけど、井上輝子さんとか樋口恵子さんとか田中美津さんとか駒尺喜美さんとかね。一番若手が上野千鶴子さんかな。母が仕事でお世話になった近山恵子さんもちょっと写ってた。田中喜美子さんも10年前はあんなにお元気だったんだなあ……。

ウーマンリブはまだ幼い頃だったから、マスメディアが揶揄していたおぼろげな記憶しか残っていない。
高校生くらいからは性別役割の固定化に疑問を持つようになった。父の言うなりだった母と、離婚して清々しく生きている祖母を見ていたから。
学生運動世代の先輩たちが作ったと思われるサークル「婦人問題研究会」の名を「女性学研究会」に変えた大学生時代。国立婦人教育会館(Nwec)女性学講座で井上輝子さんら女性学のパイオニアに出会った。当時若い参加者の中で目立っていたのは東大女性学ゼミの学生たち。彼らに比べて私たちはぬる~い女子大生グループで、昼は先生たちの話を受け身で聴き、夜はくだらない話ばかりしていた。
学生時代は私が、「我慢は美徳」の良妻賢母だった母にハッパをかけて落合恵子さんたちの「子どもの本夏期大学」に連れて行ったりしたのだけれど、卒業後は逆転。私がフリースクールでキャンプや仮説実験授業をやってる間に、母はさまざまなフェミニストの先達に出会っていた。
パートでデイサービス送迎車の添乗員をしたのをきっかけに、母は「高齢社会をよくする女性の会」に入り、近山さんらのシニアハウスで働きはじめた。駒尺喜美さんの友だち村やわかったハウスの話を聞かせてくれて、「わいふ」の会員にもなっていた。

ひとりでは電車に乗れない…とか言っていた母が、生き生きと動きまわり、高校時代からの友人が「お母さん、変わったね~」と目を見張ったほど。
第一子を出産して育児ノイローゼになりそうだった私が、今度は母からの情報で田中喜美子さんから学び、子育て相談の仕事をするようになった。
私たちの子育て本がよく売れるようになったころ、母は癌で逝ってしまったけれど、その後私が田中さんと仕事を続け、区役所の男女共同参画推進員という仕事にも就いたことを喜んでいたかな…。

転居でやめてしまったけれど、役所に関わってみて知ったこともたくさんあり、それはそれでいい経験になった。
やがて震災と原発事故があり、娘の不登校をきっかけに田舎で暮らしてみて、私も変わってきた。社会の構造から変えなければ!という気は失せ、自分の意識・日常の生活を大事にすることだなぁ…というところにたどり着いた。

余命宣告されてからの母の視線も、社会よりも自分の内側に向かっていたので、似たような道にも思える。
フェミニズムの中では、性別による生きづらさに焦点を当てていたけれど、それは人間がとらわれている「こんな自分じゃダメ」「もっとこうあらねば」の一部であって、仮にそこだけ解消されてもまた別の問題が顕れてくる…と今は思っている。

映画を見ながら、大先輩たちの歩みに重ねて、自分の周りの40年がよみがえってきた。
ざっくりいうと、何もかも変化してきたんだなあ~~~ということか。
昔はよかった、ということでもないし、いい世の中になったということでもなく。

過ぎた日々を懐かしく思うけれど、ああ生きてきたんだなあ…と確かめたら、今を生きるだけだ。  

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