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『センス・オブ・ワンダー』/ビリー(南武線)

僕はこの本を、土曜の夜の渋谷駅で読んだことを覚えています。色々書いていたけれど、「感覚を研ぎ澄ませ」の一事を説いているように感じました。目に見えるもの、耳に聞こえるものに意識を集中させてみれば、これまで素通りしていたものにハッとさせられる感覚。


自分はこの感覚に似た知識を、浪人時代、閉塞した予備校の教室で聞いたことを覚えていました。その日は何故か謎のおじいちゃんが講演に来ていて、既視感(デジャブ)ではいかんと。これからは未視感(ブジャデ)なんだと。講釈をしておりました。既視感(デジャブ)については既に市民権を得た用語で、初めて見たはずのものを、前に見たことがあるように感じるあの現象を指します。それに対して未視感(ブジャデ)とは、慣れ親しんでいるはずのものを、急に新鮮に、ありありと、初めて見たもののように感じる現象を指します。聞き覚えはありませんでした。おそらくみなさんもないかと思いますが、デジャブを逆さに読んでいる近年の言葉遊びの造語です。だんだんと熱気を帯びてくる教室で、鼻くそをほじりながらぼんやりと話を聞いていました。センスオブワンダー。彼が念頭に置いていなかった訳はないでしょう。その後間もなく、その謎のおじいちゃんが哲学者の鷲田清一その人であったことを知りました。


また少し時間がたって、自分はまたこのセンスオブワンダーのことを別の切り口で学ぶ機会がありました。緑の光のイメージがある記憶なので、おそらく初夏だと思っています。大学三年生でした。夜型の生活が続いていた自分はほとんど全ての単位を出席不足により落としていましたが、哲学講義のうち現象学の授業だけはきっちり出席をしていました。先生は哲学科の中では最も変じゃない、つまり普通の人で、僕が心のなかで思想を突き詰めた末に必然的な雰囲気の中で変人を気取りたいと目論むたびに、その強大な反例として立ちはだかるような人でした。いわく、現象学では、人が何かを確かだと考える際には3つのパターンがあるといいます。絶対的明証、必当然的明証、もう一つは忘れました。そしてそれらは重なり合っている。今外で雨が降っていることを確かだと思うとき、雨という概念、天空から液体が粒上で落下してくることを指していることも当然確かだと思っている。現象学では、これらの確からしさを区別していました。確かさの土台部分になっている、疑問にもならない疑問。確かだとも思わない確かさ。この重なり合いの論理を解明することが出来れば、人間の世界の認識方法がある側面で明らかになるかもしれない。ところで自分はその論理に特に興味は持てませんでした。むしろ絶望でした。偏見、決めつけ、見込みにまみれることを成長と呼び、生命活動に慣れが出ている。見たいものを見たいように見て、聞きたいことを聞きたいように聞いている。センスオブワンダー。札幌駅は今、爆発し雲散霧消しているかもしれない。今前の席に座っているギンガムチェックの人間は、確かに今、目の前でギンガムチェックを着て座っている。しかし人間ではないかもしれない。

実際にレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』を読んでみると、上記の所感がやや内容から逸れたものであると感じるかもしれません。実際、散文詩のように綴られたこの短い本は、大自然に対する畏怖の念、自然との共生のような、後年のエコロジーに通ずる文脈での記述が中心となっています。しかし、何かを不思議に思う感性に対象物の制限が必要でしょうか。安住してはいけない。センスオブワンダー。フラットに人の意見を評価すること。未来は自分で切り拓くこと。土曜の渋谷駅で、すれ違う人の顔を親のもののように見ること、雑踏にかき消された白線のかき消され方に情念を感じること。



知ることは感じることの半分も重要でない。
(『センス・オブ・ワンダー』より)



『沈黙の春』にて文字通り地球を揺り動かし、ヒッピーカルチャーの教本でもある著者晩年の詩作、折に触れて手に取ってみてはいかがでしょうか。




書き手:ビリー(南部線)
テーマ:秋に読みたい本

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