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『シッダールタ』/そのまんまねこ

先に公開されたnoteにて「待読」という一個の読書のスタイルが紹介されていたが、僕のそれは彼のものとは少し異なるようだ。すなわち、本を買うなり借りるなりしたとき、あるいはその前段におけるまだ小さな衝動が消えないうちに最後まで読み切ってしまう、というのが僕のスタイルだ。ただ、本に限らず長い付き合いになる存在との「出会い」に関しては記憶に残りづらい性質のようで、解散の報に涙したバンドも、枕元に置いてあるぬいぐるみも、あるいは地元に帰れば会うような友達も、その出会いの場面については断片的にしか覚えていないか、全く忘れてしまっている。まれに衝撃的な第一印象を残すものとの出会いもあるが、それはどちらかといえば僕にとって例外らしい。今回挙げたヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』も、手に取った経緯については覚えていない。ただ、秋に読みたい本、と言われてぱっと浮かんだのは文庫版『シッダールタ』の表紙だった。茶・白・黒という僕の好きな彩色は、かつての通学路の黄葉を連想させる。


死に瀕するような苦行の時にあっては世俗の生活を軽蔑し、一方で刹那的な快楽に耽っては自己への幻滅と嘔吐感を抱いてしまうシッダールタの姿は、痛ましくて愛おしい。何者にもなれない、悟りへの途上にある彼の姿は、僕にひとつの勇気をくれた。すなわち、限りなく希死念慮に近い、歪な思索の袋小路に迷い込んだとき、自身をただがむしゃらに抱きとめる勇気だった。
「自己」に渇く彼がどこに辿り着くのか、秋の夜長にじっくりと読んで欲しい作品のひとつである。なおシッダールタとは、史実と照らし合わせると仏教の開祖の名前であるが、この物語では開祖は別の登場人物として描かれており、本作はシッダールタのifストーリーとして読むことができる点に注意したい。


「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分に対して不安を抱いていた、自分から逃げていた! ということから来ている。真我を自分は求めた。梵*を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらに、はごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった」(p.53~54)

*梵…ブラフマン。最高原理または最高神。




書き手:そのまんまねこ
テーマ:秋に読みたい本


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