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『カミーユ』/アナコンダにひき

狂うのはいつも水際 蜻蛉来てオフィーリア来て秋ははなやぐ/大森静佳



『カミーユ』巻頭「きれいな地獄」の最初の一首です。もう狂った方が楽なのではないか、あるいはもう狂ってしまっているんじゃないかと思われる時に、色鮮やかな川辺が想起されるようになりました。オーバーな表現であることは間違いないですが、言葉によって私が変えられたことの一つの実例です。


歌集そのものが秋のイメージだったので今回この本を選んだのですが、数えてみたら直接的な季節の語として表れていたものは「冬」が12回で最多でした(「春」5回、「夏」5回、「秋」6回)。なんで秋を強く印象づけられていたのでしょう。来たる冬の前に、何をどのように見つめるべきか予習しておいた方がいいと考えていたのかもしれません。


映画『カミーユ・クローデル』やカミーユ本人、ロダンの彫刻等がモチーフとして登場する「ダナイード」という一連が特に好きで、実物を見たくなって7月に静岡県立美術館のロダン館に行きました。たまたま行った当日が県民の日で常設展示は無料だったために図録まで買いました。これは秋の準備ですね。



欲望がフォルムを、フォルムが欲望を追いつめて手は輝きにけり/大森静佳



「ダナイード」より。創作をされる方なんかは心当たりがあるんじゃないでしょうか。創作物とパトスとの循環構造が加速しながら手に収束してゆく光景。

大森静佳さんの短歌に現れる手足や花、樹木、空や鐘はくっきりとした輪郭を持つようでもありながら、どこか怯えや喜びに震え、周囲との境界線を曖昧にしている、または別の位相が透けて見えてしまっているようにも感じます。多分、歌を通して、彼女のまなざしから世界を見つめることができるからでしょう。見つめ続けて、その対象が揺らぐまで、歪むまで。



時間っていつも燃えてる だとしても火をねじ伏せてきみの裸身は/大森静佳



きっと大森静佳さんに見つめられたら大森静佳さんの目にそう映らなければならない姿に変えられてしまう。そんな気がする。そんな気がするほどの迫力が大森さんの短歌にはある。

秋の話に戻ります。秋のこの狂おしさはきっと一年が死の九相図である時の腐乱の華やぎに違いありません。冬はきっと白骨化した完璧な死体、死に終えたあとの物体なんです。


自分でも何が言いたいのか分からなくなってきましたが、私は秋のキーワードは「腐乱」「狂気」であり、冷気に完全に固定されるまでの華やいだ状態だと考えているようです。歌の向こうにあるまなざしに自分自身を展開されて、涼しい空気に湯気の立つ内臓を晒すのに相応しい季節が秋であるということです。やはり『カミーユ』は秋に読みたい本で間違いなかった。


追いつめて、追いつめられて狂ってぼやぼやとした輪郭になってしまった自分を文フリまでには彫りおこしたいと思います。長くなってしまいましたがお読み頂きありがとうございました。



顔を洗えば水はわたしを彫りおこすそのことだけがするどかった秋の/大森静香




書き手:アナコンダにひき
テーマ:秋に読みたい本


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