誰か

冷静に考えてみる。
人を嫌いというふうに思う時と、
同じ人を(いやいやいわゆる私は愛で包んだ方せの人間だ)と思う時と。

世界の怪しい言葉に惑わされると、自分の共感に嘘を言いかねないとはよく思う。よく思いながらも、私はもう長いことそういう緩やかな墮胎のような時間の揺り籠を眺めている。ほらまだへんな言葉が出てきてしまう。


だいぶ昔に、マスターから「その言葉には救われたよ!」と言われた言葉について考える。…語弊のないようにお伝えしたいが、私はボーカロイドではない。あと今をときめく頑張り屋さんでもない。本当にただ一般のよくわからない人だ。

いくつもあるけれど、どれもさんざめくせいでうまく言葉にできないのだ。私はひとりでいるときの方が自分を好きだったし、周囲とともに切磋琢磨すると、自分が見えてきて怖かった。それでもなおさんざめく人だと思うひとには、直視されたくもなかったのに、いつのまにか謙遜に謙遜を重ねる姿を真似した。私は一体どこだろうと言ったり、いやきっと一般化されたマスターと私が比較された時はじめて意味が見えてきて面白いのだ、と思った。

そう。

私はドラゴンマスターなんかではない。私自身がドラゴンだった。それをずっとずっと隠して、(ああ、嫌われて)と思いながら忸怩たる思いをひとには告げずに(好きな世界とは冷たい世界だ)とぼんやり目を開けていた。ほら、またなにか言ってる。

マスターを救ったのは、「きっとずっと好きなことは続けて居ると思うよ、そして、これが終わりというわけじゃなく、いつかまたその道に帰ってきた時にどうなってるのかが大事なんだろう」と言ったりした私の言葉だった。なんか脚色してるかもしれない、私は過去の自分や他者を多少誇張し過ぎるらしいので。


…ここまで書いて、電車の中で寝落ちてしまった。
あなたを夢にみました。なにか喋った気がする。

「疲れた人になってしまっている」と仕事のたび指摘され続けるのに、もう飽きたんだよ。ごめんね。優しくしてくれたのに、同じだけあげられなくて。ゆっくり言葉を吐き出すきみは、美しかったけれど酷く残酷だった。

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