つながりの時間に感じる善い暮らし 〜概念化と言葉への試み〜

「善く暮らすってなんだろう?」って疑問が最近のマイブームです。


これまで当たり前のように送ってきた日常に対し、他人の家に入った時どこか違う感覚を覚える。

「そんな風に料理するのね!」ってことや「この間取りだったら移動が便利だな」とか気づくことは多い。

そしたら、自分の家の様子って実は自明じゃなくていくらでも暮らしの中身を変えていくことができて、自分の心身が嬉しい雰囲気を作る余地ってまだまだあるんだなあ、と気づく。

でも、どうしてそれが自分だけだと気づかないんだろう?他人の生活を覗き見して発見できることがこんなにあるのに、どうして普段から意識を持って家の中を見ないんだろう?ただ帰ってご飯食べて寝るだけのハコになってしまっている自分に、少し反省。

思えば、普段一人では面倒くさかったりしんどくてやらないことでも、他人と一緒にやれば案外楽しくて善い時間になっていた経験って結構あると思う。

例えば自炊をさぼっていた時期でも友達の家に行ったらみんなで晩御飯作りたくなるし、普段スマホを見つめて足を止めず歩く道でも(歩きスマホはダメ、絶対。←)友達と喋りながら歩いていたらおもしろそうなお店に初めて気づいて思わず入ってしまったりする。あとは、些細なことだけど、自分の中にあるアイデアを他人に聞いてもらうのってなんか嬉しいし、他人に淹れてもらったコーヒーは自分が淹れるものよりなぜか美味しく感じたりする。


自分だけでは適当にしたりそもそもやらなかったりすることでも、他人と時間を共有することでなぜか生まれる感動ってあると思うんですよね。
なんか、それが「善く生きてるなあ」と思う時間なのかなと。

でもこの感動って生活の断片に散り散りになっていて、なかなか意図的に生み出すことって難しいし、またこれをうまく伝えることも難しい。
それで、自分的には当たり障りのない「つながり」や「シェア」ってふわっとした言葉で理解することになる。

でもなあ、ここをうまく概念化できたらもっと「善い暮らし」が広まるんじゃないかなと思う。例えばエンジニア界隈における「オープンソース」みたいに、「なんかこうした方が良いよね」から「まずこういう考え方が存在します。それはこれこれこういう効果を持ってます。」って議論にシフトすることができる。

なんだろ?人と関わることで感情が揺さぶられるから「エモい」 + 「コミュニティ」で「エモニティ」ってどうだろう。それぞれの言葉自体また曖昧なものだけど、なんか二つ合わされば再定義可能な気がする。「エモニケーション」の方が語感的には良いかな。まあ場面に応じて使い分ければいっか。

言葉一つ生み出すことで「あ、自分はこの現象を社会に実装していきたいんだな」と客観的に捉えることができるようになった気がしたし、また自分の言葉で今後のビジョンを伝えやすくなった気がする。

もちろんずっと他人と時間を共にするのはしんどいし、ぼっち = 悪いことでは決してない。プライバシーの話だけじゃなくて、ちゃんと一人の時間を善く生きることも大事だと思う。
つまりは選択可能性の問題で、「エモニティ」がちゃんと暮らしている地域の中にあって、「誰かとつながりたいなあ」とか「このおもしろさを誰かと共有したい!」って時に実現可能な社会空間があるってことが、これからの多様性時代では求められてきているんだと思う。

そうした精神的なちょっとした欲求から、スローフードの実現やシニアケアへの検討、子育てや教育環境の変容、災害に強いまちづくりなどが実現していくことができるのだと思う。一種の多業種交流会的な効果を表すものとして「エモニティ」の整備が大切だと思う。


コミュニティづくりにしっかり取り組んでる不動産業者やまちづくり運営者は既にたくさんいるけれど、「コミュニティにどんな効果があるのか」「コミュニティをつくるってどういうこと?」をぱっと分かりやすく伝える言葉として「エモニティ」をまずは提唱してみたい。
他にも「こんなのどう?」ってアイデアあれば教えて欲しいです。

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