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存在しない観光ホテルに関する伝聞

ある種のマンデラ効果、とは思うのだけれども。

M県の海沿いにある○○市、その市内中心部から車で30分ほど行った先に○○岬がある。この小さな岬は景観は良いのだが土地の高低差が激しく、大きな重機の搬入出がむずかしいため、今まで複数の観光開発計画が持ち上がったもののいずれも頓挫した、そんな場所である。
ところが○○市周辺に住む人々の中には、ときたま「○○岬には昔は大きい観光ホテルがあった」という記憶がある人がいるのだという。

ホテルの記憶があるという人の年齢はバラつきがあるが、彼らの記憶の内容をまとめると、だいたい昭和40年代から平成初期にかけて、多くの客室に各種館内施設、そして展望風呂を売りにした大規模な観光ホテルが○○岬にはあった、ということになっている。

そうした記憶の大半は「近くを通りかかるときにその建物を見たような気がする」という程度の、きわめてあいまいなものである。しかし中には、もっと具体的な記憶、例えば「テレビCMを放映していた」「親戚がそのホテルで結婚式をあげた」さらには「子供のころ夏休みに泊まったことがある」などと話し出す人もいる。とは言うものの、そうした人たちでも詳細を問うと記憶はおぼろげになり、また当時の写真といったホテルの存在を証明するものが一切手元にはないため、大抵の場合はどこかほかの場所の記憶と混同したのだろう、という結論に落ち着く。

ただ、

存在しない観光ホテルの記憶がある人々の一部には、そのホテルに関する本当にささいな、しかしはっきりとしたディテールを思い出す人がいる。

そのディテールというのが明確にどんなものであるかは分かっていない。
「ロビーにかざられていた古びた日本人形の着物の柄」なのかもしれない。
「部屋に案内してくれた仲居さんの名札にあった名前」なのかもしれない。
「館内の土産売り場が客寄せに流していた調子外れの民謡のメロディ」なのかもしれない。

そこまで思い出してしまうともうダメで、そうしたディテールの記憶を口に出した人は例外なく近いうちに行方不明になってしまうという。
だから周辺に住んでいてその事情を知っている人たちは、だれかが○○岬にあったホテルについて語りはじめたときには、わざと別の話題へと話をすり替えていくことにしている。存在しないホテルの記憶を、それ以上思い出さないように。

○○岬には過去も現在も観光ホテルはないものの小さな展望スポットがあり、休日には眺望を楽しむ人々の憩いの場となっている。

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