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「お坊さんと語り合うAI時代のIKIGAI対話会」で考えたikigaiベン図への違和感

こんにちは!23年末までの連投9日間チャレンジ、3日目です。実は今、スウェーデンではなくバルセロナにおりますが、そのあたりはまた後日お話しします。

今日は、お世話になっている臨済宗建長寺派独園寺住職、藤尾聡允(ふじお そういん)さんと、IDGs関連でも交流させて頂いている三木康司さん、そして宇都宮茂さんによるZen School主催の「お坊さんと語り合うAI時代のIKIGAI対話会」に参加させて頂きましたので、その件について触れたいと思います。

「21世紀、AIとテクノロジーの進化が私たちの生活をどんどん変化させています。この大きな変化の中で、私たちはどのように自分自身の存在意義や「生きがい」を見つけることができるのでしょうか?『お坊さんと語り合うAI時代のIkigai』対話会で、テクノロジーと「生きがい」の交点を探求しませんか?…」

Zen School HP イベント告知文より

日本では12月25日 21時〜22時の開催でしたが、8時間の時差がある中央ヨーロッパ時間では13時〜14時とお昼が終わった頃の時間帯。つくづく、経済とテクノロジーの進化によって、場所を問わずに世界中のセミナーに参加できるようになったの、海外在住者としてはありがたいことです。

「AIで完璧な多言語配信までできる時代に、自分という人間はこれから、この世界で何をして、どんな価値を生み出し、どう生きていけばいいのか」というのは、今後数年の間にAIに代替されうる職業に従事している人はもちろん、直近のめざましい生成AIの発達により、多くの人が切羽詰まって悩んでいる問いかけであるかと思います。

かと言って、ひとりで考えていれば煮詰まり、ネットでひっかかる程度の記事を読めば、落ち込む内容で意気消沈するような今日この頃、これからの生き方について「お坊さん」とお話しできるというのは、駆け込み寺のようなありがたい企画でした。

AIの力で完璧な英語スピーチをする、Zen Schoolの三木さん

メタバース・VRカメラやAIを使いこなすお坊さん

そもそも、スウェーデンに住む私が、神奈川県をベースにしたZen Schoolや藤尾住職とつながったきっかけは、ある意味でSDGsを補うために作られたスウェーデン発の内面成長目標 IDGs - Inner Development Goalsの月次イベント、「IDGs Gathering」で、数少ない日本人参加者としての三木さんを見つけ、お声がけしたことでした。

それから、あれよあれよという流れで藤尾住職をご紹介頂き、23年上期にZen Schoolと藤尾住職とのコラボイベントとして、海外向けのメタバース座禅会(英語)を2回ほど共催したり、藤尾住職に加えて、和太鼓奏者の塩原良さんと表現セラピストの森すみれさんもお呼びして、和太鼓✖️声ヨガ✖️坐禅を掛け合わせた、音と「ととのい」をテーマにした座談会などをやらせて頂きました。

藤尾住職は、明治大学卒業後、銀行員として海外に13年駐在され、現在は国内外に向けて坐禅会を開催されている現役住職です。また、「自死・自殺に向き合う僧侶の会」共同代表として自死遺族、希死念慮者やその家族をサポートする活動をされています。

定期的にオンライン・オフラインで座禅会を実施されていますので、興味のある方はぜひ、藤尾住職の活動をフォローください。

「ikigai」ベン図への戸惑いと疑問

さて、ここから本題ですが、対話会の冒頭で、Zen Schoolの三木さんから今回のテーマの中心であるIKIGAIという概念に関しての解説があり、非常に興味深く聞かせて頂きました。

今、海外で大人気の日本発フレームワーク「ikigai」は、好きなもの・得意なもの・稼げるもの・必要とされてるもの、この四つの集合の真ん中に「ikigai」と呼ばれるものがあり、それが日本企業やマネジメントの強みであったり、日本の長寿の秘訣の一つでもあるといった伝えられ方をされているのですが、それは日本人が感覚的に捉えている「生き甲斐」とは違うのではないか、ということ。

もちろん私の「ikigai」に対する理解不足が1番の原因なのですが、直感的には私もこのベン図はわかりにくい、もしくは誤解を招きやすいものだと感じています。


Wikipediaより「生き甲斐」のベン図

ヨーロッパで生活していると、たまに「日本のikigaiは素晴らしいと思う!実際、日本人の生き方には根付いているの?」といった質問を、いわゆる日本オタクではないものの、日本や東洋に良いイメージを抱いている30代以上の意識が高い層から受けることがあり、実は直近、今月だけで3回、オランダ人とリトアニア人、そしてスウェーデン人から、パーティーやランチといった何気ない会話の中で聞かれたのです。

「ああ、これはあのikigaiベン図のことを言っているんだろうな。ぶっちゃけ私もよく理解してないんだけどな。」と思いつつ、おそらく日本人の考えている「生き甲斐」と、あなた達が本で読んで知っている「ikigai」は少し違って、欧米ではイメージと言葉が一人歩きしていると思うと伝えると、デンマークに住んだことがあるリトアニア人から「なるほど。ikigaiはデンマークのヒュッゲHygge)みたいなものなんだね。」と言われました。

曰く、「デンマーク人は確かに居心地がよく快適な環境が好きだけど、ヒュッゲなんて日常的に意識していない。ただ、マーケティング用語として海外にデンマークのコンセプトを売るときに、意識的に使われているのをよく見かけて、複雑な気分になっている。」とのことです。

ヒュッゲ とは、ウエルネスかつ満足な感情がもたらされ、居心地がよく快適で陽気な気分であることを表現するデンマーク語およびノルウェー語である。どのような行為がヒュッゲをもたらすかについては、デンマーク語とノルウェー語ではほぼ同一の文化的カテゴリーではあるが、よりデンマークのほうが文化の中核として普及している。20世紀後半から、ヒュッゲはデンマーク文化の中心としてより主張されるようになった。

Wikipedia  

スウェーデン人も「(場所が)暖かい、居心地が良い、くつろげる」といった環境が大好きで、それを表す「Cozy」という英単語をよく使いますので、スウェーデン在住者としては「別にこういう感じはデンマークだけの専売特許じゃないのに、やたら名前をアピールしてくるな。」と感じることがあるのは事実です。

ただし、ikigaiについては、日本人が知らないところで一人歩きしている気がします。あくまで私の感覚ですが、日本人にとって、ikigaiのベン図の中でも「What you are good at - あなたが得意なことは何ですか?」「What the world needs - 社会から必要とされているものは何ですか?」「What you can be paid for - あなたが報酬・収入を得られるものは何ですか?」といった言葉がひっかかるのではないでしょうか。

私は「生き甲斐」と聞くと、「一人暮らしのおばあちゃんによる庭の植物のお世話」といった、ふわっとしてソフトな内容もふくめた概念として、状況に合わせたイメージを頭の中に描きます。そこに分析作業は入りません。

「ベランダの植物を育てるのが生き甲斐です」は母の知人が言っていました

「オタ活が生き甲斐です。」という文章は、日本人にとっては不自然ではなく、せいぜい「痛い人だな」と感じる程度ではないでしょうか。なぜなら、オタクが「生き甲斐」と感じる際に重要なのは、対象に向けた自分の情熱と、関連活動への従事だけで、それが自分の得意分野なのか、稼げるか、ましてや世の中に必要とされているかということは関係ないからです。

「編み物をすることが生き甲斐です」「ナルサスを推すことが生き甲斐です」・・・。

あのベン図を見ていると、「好きだけど得意なわけでもなく、社会から必要とされているわけでもなく、がんばっても報酬・収入を得られず、職業にもならない自己満足な活動」はそもそもikigaiになっていない、もしくは重なる部分が少ないのでikigaiレベルが低いという印象を受けてしまうような気がします。

実際のところ、この図は生きがいを分析し、その考え方について整理したものであり、自身の生きがいについてより深く知るためのものだそうで、欧米であれだけ人気ということは、正しい解釈と使い方をすれば有用な概念なのでしょう。

ただどうしても、要素が重なり合うことで、ikigaiという中心にある概念に近づくように見えるベン図は、なまじっか生き甲斐という日本語をベースにしているだけに、日本人にとっては分かりにくく、議論や誤解を招きやすいのではないかと思います。

「生き甲斐」について、日本的ウェルビーイングの探求

一方、「生き甲斐」の日本的な解釈として対話会の中の説明で面白いと思ったのは、三木さんが紹介して下さった「いき」をプラーナ(サンスクリットで呼吸、生命エネルギーなどを意味する言葉)のようなものとして捉え、「かい」は交換を意味する「かひ」であると捉える考え方です。エネルギーの交換のような形而上的な内容で、西洋的なベン図のようにすっきり説明できないのですが、日本人的な感性が反映されている気がしました。

この「いきがい」の大本を辿ると、「いきかひ」という言葉に行き当たります。哲学者の九鬼周造は『「いき」の構造』において、「いき」とは「生」「息」「行き」「意気」から成り立つと述べ、その多層的な意味を探求しました。さらに哲学者久野昭は、「生き甲斐」は中世以降の当て字であり、「いきかひ」とは「買ふ」「替ふ」「交ふ」「換ふ」などの交換を意味する「かひ」から来ていると指摘します。ここには、異なるもの同士が交わり、新たな価値を生む過程が暗示されているのです。
…(中略) カウンセラー鶴田一郎は、いきがい(いきかひ)とは、「自分が生きていること」と等価な価値・重み・意味を持つと説きます。つまり、自己存在そのものが、何かと「交わり」「換えられる」価値を有するという哲学的な見解を示しています。

https://note.com/zenschool/n/nd76e9af217dc

さて、ここまでikigaiベン図に意見したにも関わらず、この件については抽象的すぎて他人に伝えられるレベルで整理できておらず、本日のブログの中では説明できませんが、詳しくは三木さんのブログにあるので是非読んでみてください。

また、この対話会のトピックはAI、環境問題、ikigaiなど多岐に渡り、全体を通して感じたことやディスカッションした内容について書きたいことはもっとあるのですが、時間が迫ってきたので、本日はここまでにしたいと思います。

それではまた明日!


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