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「うまい文章」を書けるようになっ(てしまっ)た私たちはどう生きるか:【書評】『まだ、うまく眠れない』(石田月美・文藝春秋)

文学少年だった私は、「文章のうまい人」への憧れがあった。

「文章のうまい人」になりたいと願い、高校時代は、誰も読まない・読ませたくない小っ恥ずかしい日記や詩、小説を山ほど書いた。小説も、自己啓発本も、ノンフィクションも、ビジネス書も、大量に読んだ。

30歳のとき、運良く出版の機会を頂き、今日に至るまで、干支が一周する程度の期間、著者として、生き馬の目を抜く出版業界でどうにかサバイブすることができている。

そうした中で、「文章のうまい人」に対する単純な憧れは、次第に複雑な畏敬の念へと移行していった。

書かない人にとってはごく当たり前のことだが、文学少年も大人になれば、「生きていくうえで、うまい文章を書く必要性も、書けるようになる必然性も、全くない」という事実に気づく。社会生活を送る上で、うまい文章を書く必要は特にないし、うまい文章を書けることで何らかの得をする機会も、そう多くない。

加えて、うまい文章を書ける人は、その境地に至るまでに、多大な犠牲を払っている、ということにも気づく。それも等価交換ですらない。

常人には耐えられないような経験をしても、それによって文章力がいきなり上昇するわけではない。筆舌に尽くしがたいような経験、それに基づく思考や逡巡を数年、十数年積み重ねて、ようやく「うまい文章」を書けるようになるのだとすれば、それは「勲章」や「才能」といった表面的な言葉では、とても表現できない。

その点に気づいてからは、本の著者を「文章がうまいですね!」と簡単に称賛できなくなった。このレベルの文章を書けるようになるまでに、一体この人はどれほどの犠牲を払ってきたのだろう、と考えてしまうからだ。

本書『まだ、うまく眠れない』は、様々な体験を経て「うまい文章」を書けるようになっ(てしまっ)た著者によって書かれたエッセイだ。著者は文体の面白さで勝負できる、同世代でも稀有な文筆家の一人である。

私の主戦場は新書なので、文体の面白さよりも、文章のわかりやすさを重視して執筆している。文体で勝負できないわけではない(というと負け惜しみにしか聞こえないかもしれない)が、文体で勝負するのは修羅の道であり、著者として、いや、人としての寿命を縮める選択に思えたので、あえてその道には進まなかった。

文体は、真似ることができない。本人の人格そのものが出る。文体で勝負することは、人格で勝負することだ。書き続ける苦労、負けたときに受けるダメージの辛さは、想像したくもない。

そして、文体は多くの場合、自分自身でコントロールできない。文体を使い分けることのできる著者は、ほんの一握りだ。心臓のように、自分の意志で鼓動をコントロールできないけれども、それが止まったら死んでしまう、という厄介な代物だ。それをむき出しの武器として使わないと生きられない、ということの辛さは、想像したくもない。

文体で勝負できる能力(を育むだけの艱難辛苦に遭ってしまった過去)を持ち、文体で勝負するしかないという土俵際に追い込まれてしまった著者の苦労は、想像に有り余る。

売文は売春と同じ、あるいはそれ以上にハードな仕事である。客観的に見れば、わざわざ自分からハードモードの人生に突っ込んでいかなくても・・・と思われるのかもしれないが、そのようにしか生きられない、生きたくない、生きずにはいられないのであれば、書くしかない。

文体で勝負する道を選ばなかった(故に罪悪感を背負っている)多くの「元」文学少年の一人として、令和の自伝文学の最前線を全力疾走する著者の挑戦を応援したい。


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