「のこす」ことへの執念ー前編ー

さて、前回は初投稿だったのでガチガチに肩に力を入れて書いてみた。我ながら笑える強ばった文章だったので、今回は少し力を抜いて書いてみたい。と言ってる割りにはのっぴきならないタイトルなので、身構える方もいるかも知れない。なるべく悲壮感なく書くように努めるので、まぁ少し付き合ってくださいな。


新聞記者という仕事に新卒で就いた私だが、元々特に文章を書くことが好きだったわけでも、社会正義などに関心が強かったわけではない。

フィールドワークもどちらかというと苦手。課されたお題の意図も読みきれずに、大学の先生方に呆れられていた、という自覚がある。その割に屁理屈で歯向かってくるので、当時の教員の皆さんには面倒くさい学生筆頭くらいだったのではないか。

ただ、記者に、というよりその業界に身を投じたかったのは「失われゆくものを無為に失うことは許せない」「いま残せる術を持っているなら、それをするのは自分の役目だ」というご大層な「勘違い」を持っていたためだ、といまは思う。

人それぞれ、思想や人格の形成に影響を受けたものは何らかあると思う。映画や書籍、著名人や名曲の歌詞だけじゃない。漫画やゲームの端役だって名言を残す。そんな情報が飽和している中で、私にとって一番大きな爪痕が残ったのはNHKスペシャル「映像の世紀」だった。

当時は大学受験の直前。親に呆れられながら、毎晩テレビにかじりついて、今ではタブー視されるアウシュビッツや沖縄戦、クメールルージュのシーンで現れる遺体や虐殺のシーンを見た。国のためと言われ敵艦に一直線に吸い込まれる、または羽虫のように力尽きて海に消える零戦を見た。「残す」意義を考えた。

大学では色々あったが社会学を学ぶことになる。その縁で、メディアに関心を持ち、「書いて残す」ことに意義を感じた。就職氷河期の最中、33社受験した後、運良く第二希望の新聞社に採用される。4年目。長期連載を書く機会に恵まれる。地元に伝わる伝承。信仰。これが転機となった。

伝説は、どこかで書き変わる。資料と証言を突き合わせると、変節点が見えてくる。コマーシャリゼーションの結果だったり、誰かの売名行為だったり、噂話や与太話の混入だったりする。だがこれはいつの間にか、通説化する。

だから残さねばならない。その都度都度、変容する前に、書き換えられる前に、失われる前に書いて残す。それが当時の10年近い記者生活の使命感だった、気がする。

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