稽留流産の話。

マタニティブルーズの話書くつもりが、なんか自分の妊娠記録をひたすら書き留めたくなっちゃいまして。

出産に伴い、今まで盲信的に信頼していた母に対して違和感を覚え始めたこともあり、それについても客観的に見直したくなったので書く。

母本人がもし読むことがあったら自分のことだと分かるだろうけど、もしかしたらそういうやりとりをしたことすら忘れてるかもね。


2021年の夏に初めての妊娠。
夫婦で「もういつ妊娠しても良いかな。ピルやめてさ、あとは自然に任せようか」なんて話して、ピルやめたその周期で妊娠。
予想より早い妊娠で驚きつつ嬉しさでいっぱい。まだ初期だとわかってるのに、舞い上がって親に報告。夫婦で胎児ネーム(まだ胎芽だな)をリトルちゃんと名付ける。
最終月経日から追っていって、胎嚢が見えるはずの時期に見えない→心拍が見えるはずの時期に胎嚢しか見えない、という経過だったため、なんとなく違和感がある。

なんとなく違和感を覚えながら、それでも大きい神社に安産祈願の絵馬をかけに行く。翌日に健診。「明日で心拍見えるはずだよ、もしかしたら供養かもしれないけど」と夫に話す。

何も動いてない胎嚢が映ってる。前回よりは大きくなってるけど、見えるはずの心拍は見えず。稽留流産確定。昨日キャッキャ言いながら絵馬かけてるときには既に亡くなってたのか。神も仏もねーなと痛感。

まだ職場には(師長以外には)妊娠公表前だったのでよかった。でも本当に仲の良い人には言っちゃった。迂闊だったと今なら思うけど、あの時は嬉しくて嬉しくて我慢できなかった。
当時職場は妊娠ラッシュ。流産確定の診断翌日も、稽留流産の手術翌日も働く。いや、術後3日目から2日ほど師長に頼んで休ませてもらったな。

仕事中は気持ちが切り替わり、妊婦先輩と普通に話し、負担のかかる仕事は代わらせてもらって元気に働き、家に帰った途端にボーッと何も手につかずに静かに泣き続けるような時期を耐え忍ぶ。自分の流産と他人の妊娠は全く関係のないことだと分かっているのに「なんで私は赤ちゃん育たなかったんだろう。」と喪失感に包まれた暮らし。初期の流産は受精卵の染色体異常が原因で、良くも悪くも外部からの手の施しようがない(狙って流産させることもできなければ、助けてあげられることもできない)と分かっちゃいるんだ。だからリトルちゃんは最初からこの週数までしか生きられないプログラミングの命で、私のお腹の中で寿命を全うしたんだと理解しつつも、どうしたってやるせない。
浮かれて妊娠報告した人に流産を伝え、相手に気遣わせてしまい自分の軽率さを申し訳なく思う。

余談だが、知らない間に母が兄に妊娠を伝えており、流産2ヶ月後に農作業がてら兄に会った時「身重なのに作業して大丈夫なの?」と聞かれて驚く。

リトルちゃんのことは決して忘れやしないけど、リトルちゃんのことを四六時中考えてる状態からは脱して平穏に暮らせるようになっていたというのに背中を打たれた気分。予定になかった流産報告をしなくてはならない羽目に。


母に「お兄ちゃんに妊娠したこと勝手に伝えたんなら流産したことも伝えといてよ」とあまりキツイ口調にならないように伝える。母は「ごめん、お母さんもショックだったから…」なんて言うが、なんで子どもを失った私が、おかんのショックに配慮する形になってんだと。
癒かけてきていた傷が疼きながらも実家から自宅に帰宅した数日後、テレビで映ったキラキラネーム(関西の人から知ってる『めばえ』のお名前発表シーンより)の名前当てクイズをLINEで送ってくる母。

「今日のめばえ!姫冠(仮名)と書いてなんて読むでしょう!」みたいなライン。
実家はそのコーナーの放送時間は食事中。
帰省中はめばえが始まる直前にトイレに逃げ込んでたのに、気付いてなかったんだなと。
「まだそんな気持ちになれない」とだけ返し、まあ他にも結婚後から母に色々思うところが有ったもんだから母と精神的に距離を置こうと決断。
まあ元からべったりでもなかったけど。

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