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『わかりやすさの罪』

「それ、一言では説明できない・・・」
という内容について質問を投げかけられると、
どこから説明しようか、
頭の中でいくつも選択肢が思い浮かんで答えに窮する。

相手からボールを投げられたあとの、
わずか0コンマ何秒の空白で、そもそも相手は
どんな回答を期待しているのかを逡巡。

1から10まで知りたい人だろうか、
それとも結論だけ知れば満足か。
言葉に確信を持たず迷いながら、
見切り発車でボールを投げ返す。
日常会話ですでにこのアップアップ状態。

というか、物事はいつだって複雑で、
見方を変えれば全く違う説明ができるし、
互いの立場にはどうしたって境界がある。

その互いの境界を「私はこう思う」「どう思う?」ってああだこうだ言いながら
知っていくだけで精一杯だし、
あなたと私が同じ考えでなくても構わない。

だから複雑な状況に対して性急に答えを
導き出そうとするよりも、
わかりにくいままにしておくほうが自然だ。

でも最近は、「わかりやすさ」が正義振りかざしてるな、と感じる。
広告の宣伝文句は、文字だけ大きくて実際には何も言っていないし、
「◯回泣けます」とか「ラスト◯分、あなたは絶対騙される」とか、
予め感情の揺らぎを指定してくるものも多い。
焦りや不安をいたずらに煽り、
「一気にわかる!」「わかりやすく伝える技術」
「1分で話せ」みたいな「わかりやすさ」を
提示してくるタイトルの本が増えた。

「知らない」状態から「知った気になっている」状態に変化しただけでも、短時間で効率的に、
答えを知ることがもてはやされている。
議論が成熟していないのに、とりあえず結論だけ
出そうとする会議の何と多かったこと。

複雑な物事について考え続けることを放棄した状態は、もはや退化なのでは・・・。

予め正解を示してほしい心理は、先行きの見えない状況に耐えられない不安の裏返しで、
「この暮らしがいつまで続くかわからない」
焦燥感が常に影を落としているからでもある。

現状の<どうにもならなさ>に耐えられず、
わかりやすく手に届くスッキリ感を追求し、
日々大量の情報を消費していると、
辿り着いた情報の中にはあからさまなヘイトや、
偏見に満ちたデマ、自分本位で一方的かつ意味不明な意見が、精査されずに転がっている。

その、精査されずに吐き出されてしまった発言を、
飲み込む前に考え直したい。

その発言は正解でもなければ民衆の総意でもない。
正解を求めて飛び込んだわかりやすさの海で、
考える力を奪われ溺れていないか。
金と権力を持つ者たちのゴリ押しがまかり通る
世の中で、為政者に都合の良い情報を「そういうものだ」と受け入れていないか。
見せかけの「確らしさ」に騙されて、
物事の複雑さをまるっと排除していないか。

‘‘———————————————————————
考えなんて、考えないと出てこないのだから、
考えるしかない。
そうすることによって、「わかりやすさ」から逃れることができるはずなのだ。
———————————————————————’’

現状のままならなさは、
不快感や不満を抱えた状態で、
政治の問題・社会の問題と結びつけて
長期的に向き合っていくもの。
というわけで、7月7日は東京都知事選挙もありますね。

今日は、わかりにくい文章でも構わない、
という気持ちで書きました。

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