言葉の興醒め的側面

親密な関係にある男女に「カップル」という名詞をあてがうことで、確かに失われてしまう何かがある。急速に距離を縮めている二人を「仲が良い人たち」と呼ぶことによって、手からすり抜けてしまうものがある。言葉には確かに、「興醒め」な側面があるように思われる。それについて今回は考えていきたい。

言葉は分類である、というのはよく言われたことである。言語以前の世界は混沌としている。たとえば目の前のノートも鉛筆も、言葉なしではそれ以外から区別され得ず、全てが同一のスペクトラムの中に存在する。ここで言葉が登場すると、ノートや鉛筆はある一定の同一性を持った一つの存在として目の前に立ち現れる。背景から区別される。言葉はカオスからある範囲の同一性を切り取るという役目を持っている。つまり、ある対象をある一定の意味においてまとめ上げる性質を持っている。この時、対象の意味は固定されてしまう。たとえば目の前の鉛筆も細部を見ていけば、削られ方や傷のつき方は個別的で唯一無二のものであるが、「鉛筆である」という限りにおいてそういった差異は意識に上らなくなってしまう。一つの意味でまとめ上げるというのは、その意味の外側を切り捨てるという意味に他ならない。言葉のこういった作用を「固定化」と呼ぶことにする。

なぜ言葉を用いると世界は認識しやすくなるのか。それはもちろん、カオスが一定の仕方で整理され、分類されるからである。つまり、固定化が行われるからである。ではなぜ、カオスが分類され、固定化されると認識されやすくなるのか。それはカオスを区切ることで、あるものを対象として掴み上げることができるようになるからである。たとえば水について考えてみる。水は常温の時、液体として存在し、そのため手で掴むことは難しい。形を持たないから、するすると手を抜け落ちていってしまう。そこで水を桶に注ぎ込む。桶の形に沿って水がまとまることで、水は容易に扱うことができるようになる。言語化することで、気づかなかったことに気づくことができるようになるという経験が誰しもあるだろう。それもこの機能によるものである。言葉のこういった作用を「対象化」と呼ぶことにする。

上に述べたように、言葉には「固定化」と「対象化」という作用がある。この二つの用語を用いて言葉の「興醒め」な側面について考えていきたい。

親密な男女を「カップル」と呼ぶことによって、まず、彼らの曖昧な関係性が「カップル」という一つの意味においてまとめ上げられてしまう。固定化である。友人同士のような関係でもあっただろうし、恋愛的な意味でない愛の関係でもあっただろう。しかし、「カップル」という言葉によってそれらの曖昧に揺蕩う関係は、切り捨てられ、恋愛的な関係においてのみ認識されてしまう。これによって二人の関係はぎこちなくなってしまう。全ての行為に「カップル」の意味が付加されることで、彼らの本来の自然的な行為であった友人としての行為、愛としての行為は徐々に制限されていく。「カップル」としての行為が増えていき、彼らの行為は自然な感情の発露というよりは、「カップル」から連想される行為群の模倣になってしまう。自然さが損なわれ、不自然さが増していく。これが固定化における「興醒め」の説明である。

それでは対象化の側面からみる「興醒め」はどのようなものだろうか。「カップル」という命名以前は、彼らは彼ら自身の関係性の渦中にあった。彼らの自然な行為の結果として関係性があり、恣意的な操作ができるものではなかった。一方で彼らの関係性が「カップル」という言葉になった後、彼らの関係は彼らに「対象化」され、メタに認知されるようになった。そのことによって二人の関係性は恣意的に操作することができるようになる。彼らは関係性の内部に存在するのと同時に、外部に存在するようになる。こうやって外部の目を獲得したことによって、すべての行為は意識的なものになってくる。全ての行為に構造的な意味が生まれてくる。二人の関係性が様々に存在する関係性の中に位置されるようになる。これによって関係性のかけがえのなさが薄れていく。また関係性の未来が見えやすくなり、時間の経過は答え合わせでしかなくなってしまう。これらが気恥ずかしさ、ぎこちなさ、ひいては興醒めにつながっていく。

以上が「カップル」という具体例を用いて考察した、言葉による「興醒め」の側面である。言葉にすること、つまり言語化による問題点が明らかになった今、どのようにしてこの問題を回避することができるか考えてみたい。

解決策の一つとして副詞的に表現するということが考えられる。つまり鉛筆を「鉛筆」というのではなく、「鉛筆的に存在する」と表現するのであり、カップル」を「カップル的に存在する」と表現するのである。副詞的に表現することで、「固定化」の作用が大きく弱められている。カップル的に存在する、と表現することで、それが今ただそのようにあるだけであり、次の瞬間にはまた違った仕方で存在するかもしれないという可能性を示すことができる。全てのものが変化の途上にあり、今そう存在するのはあくまでも仮の姿であるということが明確になる。またこの表現ではカップル的かつ友人的かつ…と連ねることができ、複数の性質を同時に持つことを示すことができる。これによって、物事の一つに定まることのない多面的な様子を表現することができる。対象化は固定化に基づくものであり、固定化が弱まることによって対象化もまた弱まる。このように副詞的な表現を用いることによって、言葉による「興醒め」な側面を弱めることができるように思われる。私のこの、言葉的なものの興醒め的な側面的に存在するものに対する、哲学的な考察的に書かれた文章的に存在するものも、また変化的なものである。この文章的なものを踏まえ、また新しい哲学的なものが生まれる。全ては変化的に存在すると捉えることで、この世界(的に存在するもの)は柔らかになっていくように思われる。

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