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忘れていく音楽に

音楽を好きになるたび、分霊箱のように自分の一部がそこに取り残されたままになる。昔聴いていた音楽にふとしたタイミングで再会した時、そんなことを思う。街のBGMとして、あるいはApple Musicのシャッフル再生として、あるいは友達の歌うカラオケとして、不意にその曲は再び姿を見せる。そこに過去の自分が取り残されているのに気がつく。こちらを無感情な目で見つめている。若かったなあ、と成長を感じることはない。過去の自分をそこに発見するのと同時に、ぼくはその時過去のぼく自身になっている。過去は一瞬の現実になって、これはあるいはタイムスリップかもしれないと思う。その時の眼差しを思い出す。眼差しになる。

長い間聴き続けている音楽というのがある。それは自分を構成する大切な一つだ。長い間聴いたことで、それは身体に馴染んだ、身体の奥底からの音楽になる。しかし、ある特定の時期狂ったように繰り返し聴き、そしてパタっと聴かなくなってしまった曲というのも(あるいはこういった曲こそが)自分の核を形作る大切な音楽なのではないかと思う。あるべきものがあるべき時にあるべき場所に収まる奇跡というのが、人生の中でごく稀に起こる。求めていた時期に求めていた音楽が耳にはいる、その一瞬で音楽と同期する。人混みの中で偶然に目が合ってしまう、その瞬間の静寂にも似た奇跡は、後の人生に瞬間の残像を永遠に残す。欠けていた魂の形に正しくはまるような音楽との出会いはこのように奇跡じみているが、別れはあまりにも自然だ。気づかない間にそれを聴かなくなっている。知らない間に時が来ていて、ぼくはベンチから立ち上がってまた歩き始めている。そうやって残像を残したままに音楽は過去になる。

こういった出会いは小説では起こりにくいように思う。小説は文字を読もうという意志とそれを実行する力がなければいけない。読むのに労力がいるため、基本的に自分が読もうと思ったものしか読むことはない。音楽は聴こうとしなくても聴かされるというような暴力性を持っている。こういう偶然性の中にしか奇跡の出会いはないのではないかと思う。自分のことをわかっていると思って、実際何もわかっていないことはとても多い。今の自分にはこんなものが必要だと思ったことが、全く見当違いなことはよくある。だからこそ恣意性を突き破って届く音楽の奇跡は鋭いのだ。

恣意性を抜けて突き刺さるものというのは実は音楽に限られない。コマーシャル、広告のキャッチコピー、あるいは街ですれ違う人々の会話でもいいかもしれない。予期しない時に届くもの、その他者性の中に奇跡の出会いが隠れていると思う。近づいては遠のいていくものたちの中に宿る奇跡を忘れないように生きていきたいと思う。

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