好意とは善意の皮をかぶった自己満足

母とのやり取りで「好意で」やってくれることについて思うところがあったのでまとめておく。

年々母が苦手になってきた。年を取っていくにつれて彼女の嫌なところに目が行くようになってきた。特に愚痴がその一つ。愚痴ジャンルとして多いのが「好意でしてやっていること」への愚痴だ。

例えば、先日実家に行き用事を済ませていたときのこと。腰だか足だか、とにかくそのあたりが痛いのに、実家の山へ堀に行き(確かに腰に来る重労働)北国に住む叔母のところへタケノコを送ったのだという。補足するとたけのこシーズンのうちは週2日は堀りに行くし(掘るのはほんと叔父だろうが)自身も飽きるほどに食べるのが常だ。

「送ったってみーんな人に配っちゃうんだから」「こっちよりよほど食べてるよね」とまたしても愚痴る。「そんなことないんじゃない?自分たちだってだいぶ食べたでしょう」というと「そんなに食べてない」「あんたたちにやったりしてるから」という。まただ。つい「じゃあ、送らなきゃいいじゃん」というと「ま、それはいいんだけど」と話題をかえてくる。送りたくないわけではない、らしい。

自身の反省もあった。自分が攻撃されているわけでないし「掘るの大変だったんだね。お疲れ様」「いつもありがとうね」くらいでよかったのだ。彼女が欲しいのは「そうなんだ。大変だね。」という本人への同情もしくは同意であり、改善案ではないのだ。

今回の本題はそちらではない。彼女の「好意をめぐる愚痴」だ。

好意で何かを用意した。それに対して相手が自分の思うようなもしくは精いっぱいの謝辞や感謝をしない、というのが基本的な枠組みだ。

「してやっている」と自分を高見に置きたいのかもしれない。そうすることで「してもらう側」ばかりの自分ではない「してあげる側」になれるから。

もしくは頼まれていない「好意」だから感謝してほしい、ねぎらってほしいのかもしれない。お金を払って対価をもらうわけじゃやない。好意なんだからちゃんと感謝して、と。

おそらくどちらもあてはまるのだろう。対価を払うから愚痴を言わないで対応してくれといったら彼女は多分断るのではないか。残酷な言い方だが、自分のできることのレベルが相手を対価に値するレベルだとは思っていないから。でも好意なら違う。出来栄えが悪かろうが至らなかろうが相手はしてもらう側であり自分は「してあげた」ポジションにいられるから。

こうやって考えると「好意」とは善意の皮を被った「自己満足」なのだな。