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わたしのなりたいものの一つ

ずっとずっと教育関係の仕事になんやかんやとついてきて、今現在、ぷーであるわたしがこういう形っていいなぁと思ったのが、教師は教える人ではなくファシリテーターのようなものという箇所。

五味太郎の作品に短大時代に出会い、子どもたちと話す時は『先生はこう思う、感じる』と伝えるのが、話すのがすごくすごく嫌で、『わたしはこう思う、感じる』を心掛けてきた。自分の親と同じくらいのセンパイ方に注意されてもそこだけは頑として譲らなかった。
なぜなら教師や先生はただの職業名でしかないという彼の語っていた言葉が一番しっくり来たから。そもそも私自身にできることは少なく彼らに教えてもらうことが多いと感じていたから。

あ、《先生》についてはもしよかったら五味太郎の絵本以外のエッセイもぜひぜひ読んでみてくださいね。
わたしは彼の本を読むたび、ふむふむと言ったりしながらゲラゲラ笑います。

先日、古本屋+栞🔖づくりworkshop中に見知らぬちいさな参加者に《先生》とずっと呼ばれてしまったことにちょっとかなしさも覚えたりしたけれど、まぁ、そう呼びたいのならそれを拒否することまではしなくてよいんだなとも少しずつ消化しているところではあります。
あと、多分にじみ出ているかもしれない『わたくしが皆さまに教えて差し上げてよ!』感を完全に消し去るのはむつかしいのだなとも思うことにしました。

かなしいかな、しみついたものってなかなか落ちないですよね。
味がしみきった油揚げ目指そうと思います。
ニンゲンとしておいしくなりたいですね。

そういえば、今、間接的に姪や甥たちの勉強に関わったりしているのですけど、教育関係ヤバイしか感想が出てこない。

なにがヤバイかは明言を避けるけれど、とにかく生徒も教師も窮屈さが半端ないなと思う。

もうすこしだけ、互いが歩み寄れたらよいのに。



さて、わたしのことだけれど、これからどういったカタチになるかわからないけれど、ちいさな人はもちのろんだが、自分と同じ年齢以外の人との関わりはさらに増やしていこうとは考えている。


肩書はまだ考え中。


まずはここでわたしが《暮らしていくために、生きていくために》が根っこではあるのだけれど。

でも、答えを出すのではなく話し合えるファシリテーターのような人、道しるべ《Polaris》は目指したいな。

それはこちらの本からヒントをいただいた。
あ。
ちなみに道しるべはこちらではサインポスト《Signpost》として記載されているのでPolarisはわたしの心意気であります。

こちらの本の感想はまた別に書きますね。

《きょうそう》は競争だけではなく協奏【concert】であり共創【coproduction】にしていけたらいいな。

そんなことを感じた昼と夜がハンブンコな昼下がり。


さっ、🕒のおやつにしよう。

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