なり損ないの大人のままで

なり損ないの大人のままで好きな人に好きと言えずにゆく河川敷

 好きな人に好きって言いたいな。
 と、もう何年もずっと漠然と思っている。

 4年くらい前に、友達との旅行で縁結びの神様がいる川越氷川神社を参拝した。
 その神社には境内の小石をお清めした『縁結び玉』というお守りみたいなものがあって、いい人と巡り合えたら、二人で神社に返しに行く。
 私は、その清らかな小石を4年間、財布の中で眠らせている。

 あまりいい趣味ではないけれど、私は神社で他人の絵馬を見るのが好きだ。
 ぶら下がっている絵馬をべたべた触ったり、わざわざ裏返して見るような野暮なことはしないけれど、たまたまこちら側を向いている願い事をこっそり読ませてもらったりする。
 それまで自分で絵馬を書いたことはなかったけれど、川越氷川神社を参拝したとき、初めて絵馬を書いてみた。
 そのときにはたぶん好きな人はいたけれど、名前まで書く覚悟はなくて、『好きな人に好きって言える人になれますように』と書いた。
 あのときの絵馬はもう燃やされて灰になったかな。
 4年経った今でも、絵馬を書くとしたら同じことを願うと思う。

 子どものときから年齢より幼く見られる。
 親や友達には『若く見られていいじゃない』と言われるけど、高校生に間違われる24歳ってどうなのか。
 垢抜けてない自覚はあるけれど、巡回連絡のお巡りさんに『お家の方は?』と聞かれて『社会人です……』と答えたときの惨めな気持ちは忘れられないと思う。

 私がかっこいいなと思う周りの大人は、自分の気持ちを堂々と前に出せる人が多い気がする。
 それは同級生や友達や後輩であっても、大人だなと思う。
 好きな音楽や食べ物やその他のいろんなものは、大抵、好きって前に出せるのに、好きな人だけ隠そうとしてしまうのはどうしてだろう、とたまに不思議に思う。
 そんな、もったいぶるような価値のある気持ちではないのに、と思ったりもするけれど、24年間そういう持ち方しかしたことがないので、もう私にはそういう持ち方しかできないんじゃないかと思ったりもする。

 さすがに子どものふりを続けられる年齢ではなくなってきて、それでも私は自分を大人だとは認められない、大人になり損なっている。
 最近は、好きな人に好きの一つも言えない意気地の無さが、子どもっぽさとして全身から滲み出てるんじゃないか、とまで思い始めている。
 好きな人に好きって言えたら、少しは、私が好きな周りの大人の人たちに近づけるのかな、とか。
 そんな簡単には行かないか、とか。
 好きって言うのは、私にはまだ全然簡単じゃないな、とか。思った。

2022.12.26


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