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読書日記#29 走り続けて師走のお風呂読書

11月★日

長い長いプールのレーンを平泳ぎしているような。

そんな感じの毎日。

クロールじゃないだけましかな。

とにかく目の前にあるものを処理しては気が遠くなる。

息が苦しい。
けどなんとか進み続けられるくらい。

声が遠くに聞こえる。

こんなに楽しいことがたくさんあるのに、素敵な人に囲まれているのに、何が足りないんだろう。

足りないことが問題ではないのかな。

心のままに生きているつもりだけだけど、悪魔と取引しているような罪悪感が常に根底にあるし、そこにある空洞みたいなものに吸い込まれそうになる。

ここ最近はずーっとbathroomをきいている。
声が圧倒的に好き。声の良さを存分に活かしたサウンドも素晴らしい。

「波に流されてく 僕はクラゲみたい」
「思い出すのはきっと君だけじゃない」

断片的なフレーズが耳を優しくなでる。

水にぷかぷか浮かびながら夕焼けを見ているような気分になる。少しだけ泣きそうになる。

おしゃかしゃまを、loserを毎日きいてた頃みたい。

「何かあったんですか?大丈夫?」と友人に声をかけられたんだけど、「具体的には何もない」と答えて困惑させた。そう。話せるようなわかりやすい何かが起きているわけではない。

雨の中、夜に会社の近くでごはんを食べる予定があるから、在宅に切り替えたい気持ちをおさえて、移動。

最近は翻訳小説が何かよみたくて積読本の中から「レイチェル」を取り出して読んでいる。

育ての親が突然結婚して、急逝したうえに、自分もまたその結婚相手の女性に惹かれてしまう、明らかにヒトコワ系バッドエンドのオーラを放った怖い話のイメージがあったので、なかなか読む気になれなかった。

でもいろいろ読んできて、怖いものの楽しみ方をわかってきた今なら読めるかなと。

冒頭から破滅のかほり。けれどさすが名作と謳われるだけあってするすると読める。レイチェルが何者なのかわからなくてどんどん怖いけれど。

悪女小説というと、菊池寛「真珠夫人」が蓋を開けてみたら男性優位社会に信念を持って孤独な戦いを挑む瑠璃子の復讐譚だったことを思い出す。
あの作品も驚くほど読みやすいし、すごく好きだった。

これはどうなんだろう。

仕事中にふとXを見たら、世にも奇妙な物語で「走馬灯のセトリは考えておいて」が題材として取り上げられしかも大好評だったと書かれている。
しかもこれバーチャルアイドルをテーマにした作品らしい。最近気になる題材だ。

そう思って、ずっと読みたい本リストに入れていたけれどAmazonでポチることにする。

柴田勝家さん(著者名の歴史的人物感にいつも動揺)はアメリカン・ブッダがすばらしくよかったので、面白いのは確定している。

夜は、飲みに行って、結婚して引っ越しして退職した男性の話を聞く。
どういう恋愛をして、どういう仕事をして、なぜこの会社と出会って退職に至ったのか。こういう話をきくたびにそれぞれに人生があるんだなぁなんて、当たり前のことを思う。

お祝いがまとめてチョコレートケーキなのは申し訳なかったけど、すごく楽しかった。
またどこかで仕事できそうな予感。こうやって人脈は繋がっていくよね。

いろんな別れはいつも悲しいけど、辞めることで初めてこうして飲みに行って話を聞けるのはいいなーと思う。

とある人のことをこういうのが「ノンデリ」だよねという話をする。
「ノンデリ」という言葉を初めてつかった。デリカシーがないっていう意味だけど、こう表現すると少しライトな感じになる。ずっと使いたいからぴたりとくる状況に使えてちょっとうれしい。

ずっと息が苦しかったけど、お酒を楽しく飲むと手軽にハッピーになれる。
これはいいことなのかどうなのか。でも、もう少し奔放に、チャラくなってもいいのかなと帰りの電車の中でぽあぽあと思う。

11月◇日

異性のどんな仕草に萌えますか?好きですか?という質問への回答、ずっと的確な答えが思いつかないという話を前もここに書いたかもしれないけど、昨日インタビューを書き起こしていて閃く。

私は一人称が変わるのにキュンとする。これわりと男性ならではだと思うんだけどどうかな。

「私」を一人称にしてる女性は他の一人称で話すことが基本的にないのでシーンによって使い分けるということがない。
だけど男性はプライベートでは「俺」でビジネスシーンや節度ある距離感の女性の前だと「僕」「私」などと一人称を変える。

で、普段は「僕」とか「私」と話していた人が、ちょっと気を許して一人称が変わったり、つい熱くなって話しすぎて一人称が「俺」になったりするのが好き。

昔付き合っていた人は「私」と「俺」と「僕」を無意識に切り替える人で、あの時「俺」だったね、とか「僕」って言ってたねとかいちいち本人が気にしてないのに気付いて指摘してにやにやしていたのを思い出す。相手側は面倒くさそうだった。

何の話?
っていうね。いよいよ読書日記じゃなさすぎる。日記ですらない。

つまりインタビューを書き起こしながら一人称の変化を敢えてなおさずに書き綴り、いいわぁと思っていた。

いろんなことに追われる合間に「いとエモし。」を読んでる。


これぱらぱらーっと読める、いわゆる古典超訳系の一般教養寄りの書籍かと思ったんだけど、メッセージ性がすごいし、中身も骨太。

全ページカラーの装丁も、許諾取って借用した画像の点数とその美麗さが飛び抜けてるのも、言わずもがな、です。

かつてその時代を生きた人たちの感覚が伝わるように手が尽くされていて、時々エッセイ的に紫式部、菅原孝標女など、その歌を詠んだ人たちの人生の一コマが紹介される。これがどうにも共感できてしまう切なさで、何一つままならない自分の人生と重ねてきゅーーーんと切なくなってしまう。

恋愛小説を読んでもこうはなかなかならないんだけど、

ああ、あの頃みたいに、恋がしたい。

と思ってしまった。

12月●日

抜け殻のような朝。

何度も起きては眠る。ぼーっと今日、何をしないといけないかを考える。

携帯をみて、昨日きた代理店からのメールに返事をできていないことを思い出して暗い気持ちになる。すべてはこれを返さないと始まらない。

がんばれるかな?今日一日。

ボーッとした頭の中をうっすら昨日の夜のことがめぐりめぐる。これでよかったのか。でも、私にはこれ以上の最善は尽くせなかったと思う。

行きの電車で久々に「死る旅」を読む。

この本は怖いものを求めて旅する過程の思索がいい。自分はひたすら心霊スポットをめぐるけれど、職業として続けるうちに、自分がわくわくしないことに気付いて絶望しかけたり。

自分はなぜ怖いものを求めているのか、怖いものとは何なのか?哲学的な趣すら感じる。

とはいってもまだ冒頭なので感想を言うには早いかもしれない。

会社では新しい人が入社して、出勤するフロアも変わって、なんとなくそわそわした雰囲気を感じる。

月初の申請の諸手続きがおそろしいほどはかどらない。

あれの申請、この前のを参考にしたい、あれなんの案件だっけ。あった。この前添付したのを再添付して、あ、決裁No.は?あ、あの時のメール画面見つからない、新しいメールが届いて返信しなくちゃ。唐突に横から「ちょっといいですか?」「はい」さっきまでしてたことを忘れて放置。振り出しに戻る。

こんな感じで頭がぐるぐるとかき回されて何一つ進行されない。

ふわふわと1日が過ぎる。

過去に少し広報をサポートしてた中学の頃の同級生からメッセージが届く。
広報マネージャー興味ないか?と。

「自由度高いよ」という言葉が鼻についてしまう。
その自由ってなんの自由なんだ。

どうなるかわからないスタートアップの広報マネージャーになる私のメリットをどう考えてるんだ、と疲れすぎてマイナスに考えすぎてしまう。

私は彼のことを嫌いなわけじゃないけれど、私が離婚したことを打ち明けたら、即そこにつけ入ろうと手を出そうとしたこと、忘れてない。

何とか私の家まで送る流れで上がり込もうとして、
「なんで僕たち昔付き合わなかったんだろうね?」
とか言われて。

なんで私が付き合いたいと思ってたことを前提にされてるんだろうと、軽く見られてることに傷付いたこと、わからないようにしてたから彼は気付いてない、きっと。今だってスタンスはそんな変わらないんだろうと思う。

仮に利用される側でしか生きられないとして、私にだって利用してくる人を選ぶ権利はある。

何一つきちんと終えられずノー残デーなので帰ることにする。夕飯に誘われる。

ああ、そういえば、お腹すいたなぁ。
最後の力を振り絞って気を張って過ごした一日を経ての、全身の力が抜けるような気持ち。

ごはんを軽く食べて帰ってきて、今日もお風呂に入る。

お供は「うどん陣営の受難」

私の好きな津村記久子さんの中編小説。
ずっと前から買ってあった。私が勝手に現代のプロレタリア文学作家だと思ってる著者の本領が発揮されてそうな内容だと思って。

今のところ主人公は、特に強い意志もなく、社内選挙の抗争に巻き込まれて、働きづらいことこの上ない状況に揉まれている。
この無力感。わかりみ。

薄い本なので半分くらいまですっと読み終えた。土日のうちに終わるかな。

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