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インタビューライティングにおける「本当」と「伝わりやすさ」と「誠実さ」に関するぐるぐる

最近、久々に「インタビューを書く」ということにお金をいただくお仕事をしました。

この一連の体験を経ての内省的なお話なので、うまく言語化できるか自信がないのですが、とにかく書き残さないと、という気持ちで書いています。

文章を書くのは小さいころから自分にとっての一番のコミュニケーション手段で大好きなことなのですが、それが仕事かどうか、またどんな文章を書くかで向き合い方がかわってきます。

普段は企業の広報をしているのでプレスリリースをよく書いています。SNSの投稿文やちょっとした社内向けに発信する文章、役員レイヤーの方のあいさつ文などもかきます。

それはあくまでも「広報」という仕事の中の、あるコミュニケーション活動の中の一端を担うものとして文章があるので、いわゆるライティングというのとは違うように感じます。

ただそのプレスリリースを書く、ということですら、さくっとはできなくて、どういう構成で誰に何を伝えて、誰に記事にしてもらうか、悶々と悩みながら、魂を削るような気持ちで文章をつくります。

noteはわりとスピードを重視しているものの、書いている対象物や読んでいる人が「うれしい」「読んでよかった」と思うくらいの品質は担保したい、何より私が「読み返したい」ものにしようとは心がけています。

「ライティング」それ自体にお金をいただくというのは、私にとってはまだ慣れないことで、年に数本ですが、毎回とても悩みます。特にインタビューという活動自体は大好きであるがゆえに、それを記事にする際には感情が揺さぶられて大変です。

取材して、そこからストーリーや発信者のメッセージを先鋭化し、伝えたい人に届くように構成して書くこと自体はとても楽しくわくわくします。

けれども、精一杯がんばっても、手ごたえがないというか。

いったんこれ以上はできないと思っても、一晩寝ると、あそこはちょっとわかりづらかったかもしれない、ここは順番を入れ替えたほうがわかりやすいかもしれない、ここはカットできるかもしれない、とぐるぐると言葉が頭の中をめぐります。

また「その人らしさの感じられる表現」と「要旨としてのわかりやすさ」と、どちらをどのくらい優先すべきなのか、発言を書き換えることはライターが取材対象の思いを踏みにじるようなことにはならないのか、考えれば考えるほどわからなくなってきます。(多分、本来はトレードオフではないのだとも思います)

プレスリリースライティング講座的なものは、素通りしようと思ってもいろんなところで叩き込まれるので、ある程度の着地点が見えているのですが、インタビューとなると、もちろん世の中には優れたインタビューはたくさんあるけれど、そのテクニックを分析するようなものってあまり目にしないし、いいなと思ったインタビューは、どのくらい書き換えられてここにたどり着いたのかを知ることもできません。

ちょうど1年くらい前に、同じようにインタビューライティングに悩み、「インタビュー術!」という本を読みました。

そこで書いてあったことがけっこう本質だなと思っていたので、改めて書き起こしてみました。

語尾になんでも「ね」をつける人がいる。それも、気分が乗ってくると「~なんだよね」「~だよね」と連発する。(略)べつにインタビューは精神分析でも何でもないのだが、テープを聞き返し、それをパソコンに入力した文章を読み直すと、「ね」の背後にある彼の不安な孤独が見えてくる、ような気がする。(略)原稿ではこの「ね」を頻出させるのではないやり方で、インタビュイーの感情の変化を原稿に反映させる方法はあるだろう。それを探す。

無意味な言葉を連発する人も多い。何にでも「基本的に」を接頭辞のようにつける人がいる。「体調はどうですか」と聞くと、「基本的に風邪ひいてまして」などと言ったりする。(略)人は緊張すると、とっさに言葉が出てこなくなって、でも空白時間は怖いから、無意味な言葉で時間を埋めようとする。「基本的に」とか「逆に言うと」や「変な話」はそういう、いわばバロック音楽の装飾音のようなものだ。これも「ね」と同じく忠実に原稿にするわけではないけれども、何らかのかたちでそれを反映させれば、インタビュイーの状態や呼吸のようなものが見えてくる。

そうなんだよなぁと、思います。

私が今回悩んだのも、そういうことでした。
口癖や緊張してうまく説明できないことをそのまま表現する必要性はない。でもその人が性格上、あるいは全体のインタビューで得られた言葉の範囲的に言わなさそうな表現は使いたくない。

だからといって、この「ね」の呼吸を置き換えるような秀逸でわかりやすい表現が見つけられるプロフェッショナリティもない。

一度提出したインタビューに入った、編集者からのたくさんの細かい修正を見ながら、私はどこまで、そのインタビューからライティングまでの一連のプロセスとアウトプットに誠実に向き合えたんだろうと内省しました。

私じゃない人が書けば、もっと臨場感がありつつも、伝わる内容にできたんじゃないか。あるいはこのぐるぐるした感情を捨てて、客観的にわかりやすさを追求してよいアウトプットがつくれたんじゃないか。

どちらの視点から見ても中途半端で、まだまだ未熟であったことを思い知るのです。

ただ、そうした未熟さを知り、今できる範囲で向き合うことができたのはとても大きな収穫で、日々、新しいチャレンジをして、新たなスキルを鍛錬していくことはとても大事だなと思いました。

先に紹介した「インタビュー術!」の締めに出てきた言葉が私の目指すインタビューの世界観をまさに表現しています。

よくできたインタビューは、インタビュアーとインタビュイー双方の生きている瞬間をリアルに再現させる。そこには、話し手の人柄や思考だけでなく、他社との関係性、社会との関係性、世界との関係性もあらわれる。
大げさにいえば、インタビュアーとインタビュイーが生きる時代や世界が見えてくる。インタビューを読むことは、世界に触れることでもある。

私は仕事とは別の軸でその人の自分史を書き起こすようなインタビュープロジェクトも行っています(今、少し停滞中ですが)。
語る本人自身も気づいていないような、世界との関係性が広がるようなインタビューライティングの在り方をこれからも模索し、磨いていきたいと思います。


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