【7/17】「感謝」と「謝罪」は人の為ならず

言葉を並べるにも体力がいる。気力がいる。集中力がいる。

Twitterに書けるような言葉なんてのはいつでも衝動的で、「えい!」と押し出せばひと目の触れる雑踏に繰り出す。

そんな感情の尖りを含んだ一塊が、思いもよらぬ誰かに当たってしまうくらいなら、もう少しまとまりを得た言葉であったほうがマシだと思った。どうせ出すならば、マシな方がいい。もう一度こうして丁寧に書き出してみる。頭が冷えたとき、「違う」と思えば手を止めればいいだけの話だ。

また、何かを間違えたと思ったらすぐにリハビリをして、自分の状態について、定期的に見直したい。綺麗さっぱり掃除をしたい。軽くしたい。そう思った次第である。


「感謝」をすると、どうなるだろう

「感謝」は、なんとなく大事である。みんなそう思っている。それはなぜだろう。

感謝をすると、癒やされるような感覚がある。必死に握りしめていたものを手放して、軽くなるような感覚がある。

だいたい、感謝をされて嫌な気持ちにはあまりならない。スムーズである。された相手も気持ちがいいものだと思う。素直な気持ちがそこにあれば、より清々しい気持ちになる。

だけれど、やっぱりまず、感謝をするのは自分のためである。そして、ありとあらゆる関係性へと、「いつもありがとうございます。」「これからもよろしくおねがいします。」そういった意味合いを含むと、わたしは思う。

すべての存在にとって、「関係性」が全て、という理解がある。関係するから、そこに存在がある。それを"縁起"だと頭で理解する。

感謝をするということは、そこに色のついた血を流してみて、循環があることを再確認するような作業だと思う。それは生きていることの根源でもある。関係性があるから、自分を特定できている。母と父がいなければ私がいない。千葉がなければ千葉県民ではいられない。

だからそのことについて、「有り難い」と思う。有ることは、難しである。感謝というのは、そういったものへの想いを馳せる、忘れがちだからこそ確かめる、定期的な儀式のひとつかと思う。

「謝罪」をすると、どうなるだろう

つい先日、人に迷惑をかけることをした。酒に酔って、いらぬ波を立てた。

酔いに醒めてから、「謝罪」をした。不甲斐なく、大変申し訳ない。

それを経て、「謝罪」というのは、どういった機能や意味合いを含むだろう?と改めて考えることにした。

いつでも「謝罪」というのは、油断をすると「負けを認めること」「弱い自分を認めること」と関連して、「自尊心を失う行為」として捉えだしてしまう。難しい。そして、間違っている。

潔く、謝るべきところを謝る。陳謝する。すると、もちろん程度によるし、場所によるし、その後の振る舞いによって印象は変わるのだけど、あまり無意味に咎められたりはしない。社会や人は厳しいが、とても優しい。

そうした経験をしてわかるのは、「謝罪」というのはまず、自分のためであるということである。

許されたいからではない。でも心は、許されたがっている。もちろん許されたほうがいいのだけれど、相手が私を許すことを、私自身が選択できない。だから許されたがっても許されない。そういうことが起こる。

謝るべきところで、謝れない自分というのは、ひどく自分のイメージを悪くする。無意識が過ちに気づいているが、意識が謝ることを妨害する。自意識が「いつでも自分は悪くない!」と主張してくる。そのたびに、「あぁ、とても厄介だな」と思う。

意識と無意識の乖離を正すために、きっと私はまず自分のために、「謝罪」をする。その行為自体を責められたとしても、仕方がない。これは、そこからもう一度始めるための儀式のひとつである。

転んだならば、またすぐに立ち上がらなければいけない。転んだことを認めなければ、立ち上がることができない。その合図として、儀式として、私はまず「謝罪」をする。しなければならないのだ。そして、立ち上がることに人の許可はいらない。

例えば私が、いつまでも転んだままダラダラと引きずっていたら周りはどうだろう。それこそ迷惑なのではないか。さっさと立ち上がって、また動き出して欲しい。再スタートを素早く切って欲しい。そう思うのではないか。

社会は「反省しろ」という。反省は大事だと思う。そして活動を休止したり、辞めてしまう人がいる。それはどうなのだろう。それがファンだったなら、次の作品を早く見せてくれと、私は思うが。社会は違うかもしれない。

とはいえ、小さく、寛容なコミュニティにそういった強い抑圧はない。さっさと動き出し、関係性へと貢献することが求められるし、きっと、望まれている。

だから、誤りを得たら潔く「謝罪」をし、再出発することで私はまず自分のために、そして周囲のためにまた動き出したいと思っている、そういったことについて、すこし思うことがあったので書き残してみた。これは私の考えである。

まとめ

改めて言葉にすると、自分の頭の整理になる。きっと同じようなことをこれまで書いてきたけれど、やはり、基本はいつでも同じようなところに帰ってくる。なんどこの振り出しに戻ってきただろう。

何か間違えている、最近の自分は、様子がおかしい。そう感じたときはまず、一度びしっと立ち止まり、「感謝」と「謝罪」について丁寧にメンテナンスすることにしている。何度も何度も、確認をしている。

ここが疎かになってうまくいった試しがない。必ずどこかで大怪我をしてきた。傲慢になって、酔いが回って、冷静な思考が保てない。散り散りになっていき、思いもよらぬ誰かにひどく迷惑を被っている。いつまでも情けなく、愚かで、どうしようもないのが私なのである。

それでもまたやり直すしか、仕方がない。失敗を重ねて、また動くしかない。一度見た景色は、次の挑戦で対策のしようがある。「前はここで全て台無しになったな」と、感覚が覚えている。

今のわたしができるのは「感謝」と「謝罪」しかなかった。それだけは確かで、それを済ませたらまた、今やるべきことをやり始めるだけだ。

くだらない自分を支えてくれている人や環境、関係性への感謝を忘れずに、またもう一度動き出そうと思った次第です。

なにが、ということではないけれど、すみませんでした。いつでも素直な話を聞かせてもらえたら、わたしは嬉しいです。

ウイスキー飲みます🥃